創立28周年

4月25日で創立28周年を迎へた。

よく続いたものだと思ふ。

いろいろなことがあった。あり過ぎた。

いろいろあったけれど、志だけが支えだったかもしれない。

続いたのは、いろいろな方に支えられたからと思ふ。

いつまで続くかわからないけれど、人々の意識の目覚めやそれを通した社会改革に役立つことをしていければ。

この現象界はだうしやうもないけれど(苦)。

一人でも目覚める人が出れば。
(一人以上は出たかな。笑)
多くの人が目覚めれば。

息抜き

先日お会いしたノンデュアリティの人は、息抜きは必要ないと言ってゐた。
息を抜く「人」がいないからか。

自分は息抜きばかりしてゐる。逃げてゐる(笑)。
何から逃げてゐるのか。
仕事のわずらはしさから。
仕事は、心をすり減らす。
悟れば、すり減らす「心」もなくなるのだらうけれど。

また、氣も散ってしまふ。仕事が長続きしない。
取り組まないといけないことが多過ぎで、それぞれに氣が向かい、それぞれに神経を使ふ。

対象ではない

一瞥なり覚醒体験をすると、そこに現れた世界にとらはれてしまふ。
眠り(想い)の世界で見ていた風景と違ふ世界が現れるので、その世界にとらはれる。

そこに出現したものは、あらはな(輝く新鮮な)世界ではなく、そのやうに見える背後(内側?)の何ものかだ。
それは対象ではない。
では、主観か?
それを感得してゐるものがあるのであれば主観ではあるが。
主観でもないやうな・・・

トニー・パーソンズは、「何でもないもの」が「あらゆるもの」として現れるといふ。

また、話は変はるが、今日お会ひしたノンデュアリティの人は、多くの人はノンデュアリティはスピリチュアルの一種だと勘違いしてゐと言はれてゐた。
ノンデュアリティとスピリチュアルは全然違ふ。
スピリチュアルは知識の世界。
ノンデュアリティは知識を超えた世界。
相容れない。

最近は、二つの話題を1回の投稿でしてゐる。
デュアルだ(苦笑)。

ノンデュアリティの極北と極南

現代のノンデュアリティの極北と極南は、トニー・パーソンズとバーナデット・ロバーツかもしれない。

どちらも自己が抜け落ちてゐる。

現代の禅の六祖慧能ともいへるトニー・パーソンズ。

バーナデット・ロバーツも行けるところまで行った。

過去にはルーミーや他のスーフィー、禅僧やゾクチェン僧、キリスト教神秘主義の人々等がゐた。

 

覚醒と悟りは違ふ。

覚醒はただの一瞥体験や感覚的なもの。
悟りは、自己の本性を悟るもの。悩みや苦悩が消えるもの。
覚醒や一瞥体験では、悩みや苦悩は消えない。
自己の本性を悟ってゐない。

全然、自分は悟れてゐない。
「自分」がまだあり過ぎる。

 

今回も、前半と後半では違ふ話になった(苦)。

ゴッド・ファースト

先日お会い人は、ゴッド・ファーストで生きてゐると言はれてゐた。
すごいなぁと。

自分は、ゴッド・ファーストで生きてゐない。
何もファーストにしてゐないかもしれないが、エゴ・ファーストで生きるゐるやうに見える。
自分優先(苦笑)。

5月にトニー・パーソンズの『この自由』を出す予定だが、個人の幻想性をこれでもかと打ち砕いてゐる。
(『この自由』は薄い本だが、訳が難しく翻訳者が3人変わった)

個人とはエネルギーの収縮したものとトニー・パーソンズは言ってゐる。
それが分離を生んでゐると。

あらゆる悟りへの手段や方法は、個人を強化するだけのものと言ってゐる。
「気づき」もさうだと。

主客を超えたものの認識も主観でしかないのかな。認識してゐること自体が。
主客を超えたものは、認識ではなく何なのか。

トニー・パーソンズは、「何でもないもの(no thing)」が「あらゆるもの(everything)」として現れてゐると言ってゐるが。

(前半と後半で話が全然変わってゐる(苦笑))

仏教の流れ

ブッダ自身の悟りの内容は不明だが、小乗仏教(上座部仏教)では人生は諦めるしかないみたいな教えで救ひはない。原始仏教(小乗仏教)と言はれるものには何の救ひもない。(救はれた人がゐたのかな)
覚的世界への言及もない。
空(くう)や唯識で悟りの世界を端的に示した大乗仏教は、悟り・覚醒の世界を如実に示してゐる。
後期仏教の密教では、氣やイメージを使った念力みたいなものになり悟りの世界から遠ざかった。
それをゾクチェンが悟り・覚醒の世界へと戻した。
禅もゾクチェンと共通のものがあり、密教や観念的な仏教から悟りのほうに戻した。
その禅も今では形式化し、悟り・覚醒にはつながらない。今は非二元・ノンデュアリティが悟り・覚醒を受け継いでゐる。
キリスト教神秘主義やイスラム教神秘主義(スーフィー)も覚醒・悟りを伝えてゐるが、今は非二元・ノンデュアリティだ。

非二元・ノンデュアリティを理解できない人は多いがやむを得ない。
霊能者も非二元・ノンデュアリティを理解できない。それは全然別のものだから。

基本、大元は、覚醒(主客を超えたものを感得すること)だ。
救ひがあるとしたらそこにしかなく、エゴがあるうちは救はれない。
エゴがあるうちは、主客を超えられないから。
エゴがあるうちは、救ひがないから。

人間は何故こんなに働かないといけなくなったのか。

他の動物たちは、食べるためにそんなに働いてゐるやうに見えない。ダラダラしてゐるやうな(笑)。
それに反して、人間は何故こんなに働かないといけなくなったのかな。
たくさん働かないと食べていけない。
たくさん働いても収入が少ない。
ほんの一握りの人だけは裕福なのだろう。彼らも忙しいのか。

人を働かせるやうになったのは、農耕社会になってからか。組織化されて統治者と労働者に分かれ、規則的に働かされる体制になった。農耕社会の次に出現した工業化社会になって、もっと働かないといけなくなり、さらに情報化社会になって、さらに働かないといけないくなった。
いったい何なのか。

何ものかに駆り立てられてゐるのか。外なるものか、人間といふ生物の性質の中に組み込まれてゐるものなのか。
一旦組織化されてしまったら、まっしぐらなのか。
シュメール(チグリス・ユーフラテス文明)から始まり、世界中にこのシステムが広まったのか。

今にゐる

4月下旬くらいに出す予定のトニー・パーソンズの『この自由』で、トニー・パーソンズは「『今にゐる』『ありのままに委ねる』といふのはいずれも状態であり、状態であるといひことは一時的であるため、いずれなくなってしまふことは避けることができません」と言ってゐる。

「今にゐる」は、状態。
相対的なもの。

希望の言葉

皆は希望の言葉を欲しているらしい。
なぜだらう。

どこに希望があるのだらう。

地球の環境や社会の構造にほとんど希望がないのに。
人間のエゴの愚かさよ。

また、お釈迦さんが四苦八苦を言ってゐるのにどこに希望があるといふのか。

この世は幻想だと言はれてゐるのに、希望の言葉に何の意味があるといふのか。

快楽(欲)を満たせるところにのみ希望はある。
刹那的、生物的な希望が。
それ以外に何の希望があるといふのか。

会社経営の厳しさよ。

主客を超えたところにのみ、〇〇がある。
〇〇は言葉にはできないもの。
あらゆる言葉がかすめるが、ズバリの言葉がない〇〇。