何か否定的なことを言はれると、ついカチンときてしまふ。
感情的に反応してしまふ。
エゴが発動する。
全然エゴ(マインド)が落ちてゐない。落ちない。
エゴがないならば、何を言はれても平気な筈だ。
何も気にならない。いい意味で馬耳東風だ。
心を落とさなくてならない。
といふのも心(マインド)だが。
落ち切る。
何か否定的なことを言はれると、ついカチンときてしまふ。
感情的に反応してしまふ。
エゴが発動する。
全然エゴ(マインド)が落ちてゐない。落ちない。
エゴがないならば、何を言はれても平気な筈だ。
何も気にならない。いい意味で馬耳東風だ。
心を落とさなくてならない。
といふのも心(マインド)だが。
落ち切る。
ビルの谷間でも、室内でも覚醒できるが、雄大な山々を見ると意識が広がり、気持ちも広がり、すべてを包む、覚醒意識になる。
大自然とともに生きてゐる人々は、都会でせこせこ生きてゐる人々とは意識が違ふのだらうな。
マインドもノーマインドになってゐる時間が多いのではないだらうか。
宇宙に出たらだうなるのだらうか?
宇宙意識といふ表現もあるが。
宇宙飛行士は、覚醒体験する人が多いとも聞く。
ガンダムでは、宇宙に出た人々の中から「ニュータイプ」が出る(笑)。
人類が宇宙に出たら意識が変はるのだらうな。
その前に、大自然に。
今日、ある方のセッションを受けたら、多次元的な能力を使ってゐないと言はれた。
日常の業務は、それなりのこなし、社長業もしてゐるが、本来の力を発揮してゐない、と。
自分で自己評価を下げて制限してゐる、と。
多次元的な潜在能力があるので発揮したほうがいい、
地球と宇宙とのアンテナの能力もあるので、ちゃんとつながって発信したほうがいい、と。
自分ではわからないが、さうなのかな?
自分は「地球人」だと思ってゐたけれど、さうではないらしい(笑)。
他の人からも、さう言はれたことがあるが、やはりさうなのか。
今はくすぶり状態にあるやうだ(笑)。
多次元能力を発揮して、第二の人生を歩んだはうがいい、とアドバイスを受けた。
では、だうやってその能力を発揮していけばいいか・・・
フーマンは、ノーマインドになればなるほど超能力が出てくると言ってゐる。
自分の能力も、ノーマインドになれば発揮されるのかな。
マインド(思考、思念)は、自分(主観・エゴ)と対象(世界)の二元の世界で生きてゐる。
ノーマインドは、自分(エゴ・マインド)が脱落することによって、主客の二元ユニットを超えた様相(超越者)を認識する。非二元の世界を認識する。
アメブロからまたこちらのはうに戻ってきました(笑)。
ドメインも変へ、タイトルも「いやいやスピリチュアル」から「ノーマインドの道」に変へました。
最近、ノーマインドがテーマになってゐるので、その名前にしました。
アメブロは、広告が多く煩雑な感じで馴染めなかったです。
スターピープルWEBの「発行人愚言録」でも書いてゐますが、そこでたくさん書くとバランスが悪くなり、個人的な色彩も強くなってしまふので、個人的なことはこちらで書くことにします。
「発行人愚言録」は、スターピープルWEBに関係しさうなときに書いていきます。
よろしくお願いします。
スタッフの意向で、アメブロに移行しました。
https://ameblo.jp/awakeningtrueself
アメブロで人気になって会社の利益になってほしいさうです(笑)。
そんなに人気になるかは定かではないですが・・・
やってみやうホトトギス。
ダメだったらやめてみやうホトトギス。
ここのところ書籍で『ハートの~』といふ本(翻訳本)が2冊、出版が中止となった。
また、日本人の書籍でもハートの本が難航してゐる。
ハートに何かあるのかな。
自分のハートに問題があるのか、それぞれの著者や訳者に問題があるのか、はたまた社会的に何かあるのか。
それとは直接関係ないのかあるのか(笑)、今日、ある霊能者のお試しリーディングで、
自分の過去生が平安時代初期の悪徳僧侶だったと言はれた(爆)。ダークサイドだったと。
その過去生を言はれたのは初めてだが(霊能者はみんな違ふ過去生をいふ)、今の自分はダークサイドなのかもしれない(笑)。
それでハートに問題があるのかな。
ダークサイドとは何か? 暗黒面。
結局、アナキンはどうなったのか。
聖書や仏典を見ると、イエスは祈り、ブッダは祈ってゐない。
なぜ、イエスは祈り、ブッダは祈らなかったのか。
いろいろなものに挑戦しないといけないとき、課題や艱難があるとき、そして不安があるとき、
祈りは必要なやうに思ふ。心の安定のために。
イエスは、使命?を達成するために、祈らざるをえなかったのかな。
命をとした役割を全うするために。
神と自分との語らひの時間が必要だった。それは言葉なきコミュニケーション。
ブッダには、そのやうな課題はなかったのかもしれない。
安らぎの境地にゐればよかったのかもしれない。
梵天から、みんなに悟りのことを教ヘるように、と請はれて教へるやうになったが、
使命感といふほどでもなかったのかもしれない。
祈りには個人性がある。
個人性のない人に祈りはない(いらない)。
祈りには個人性があるが、個人を超えた要素もある。
超越と個とのせめぎあひの中で成り立つ。
非二元と二元との間で成り立つもの。
「目覚め」、「覚醒」は、別の表現では、「氣づき」と表現される。
なぜ「氣」がつくのか? 「氣」と関係があるのか?
仙道では、修練法として「練氣化神」といふのがある。
氣を練って、神(仙道では意識のこと)に変化させていく、という修行。
「氣づき」を通して、「覚醒」を強化していく感じなのかな。
今度出す『悟りを生きる』も、「氣づき」の練習をするようにと書かれてゐる。
訓練をつむことによって、短期間の「氣づき」が次第に長時間の「氣づき」になると。
まさに「練氣化神」だ。
「練氣化神」とは、覚醒法なのだ。
小周天や大周天が、「練氣化神」ではないのだ。
それらはただ「氣」をめぐらせるだけのもの(?)。
6月の末日は、半年に1度の大祓ひの日。
神社では、茅の輪くぐりを行ってゐる。
それに合わせて弊社では、半年の大祓ひで社内飲み会を年中行事の一つとして行ってゐる。
29日に行ったが、スパークリングワイン、ビール、日本酒、赤ワインとチャンポンしてしまって、悪酔ひしてしまった(苦)。昨日、今日と体調がよくない。2日酔ひ3日酔ひ。
アルコール依存症の自分でも、昨日今日はアルコールは飲めなかった(笑)。
今年も半年が終り、気候は夏真っ盛りの状況だ。