地球の命運を決めるアメリカ大統領選だが、バイデンがほぼ確定らしいが、
トランプもバイデンも人相がイマイチだ。
バイデンはとってつけたような人相。整形人相? 何を考えてゐるのかわからない。
崇高さは感じない。
副大統領へのつなぎといふうわさもあるが。
左派の副大統領が何をするか得たいが知れないが。
混迷の地球情勢。
スピの人達も混迷???
地球の命運を決めるアメリカ大統領選だが、バイデンがほぼ確定らしいが、
トランプもバイデンも人相がイマイチだ。
バイデンはとってつけたような人相。整形人相? 何を考えてゐるのかわからない。
崇高さは感じない。
副大統領へのつなぎといふうわさもあるが。
左派の副大統領が何をするか得たいが知れないが。
混迷の地球情勢。
スピの人達も混迷???
GO TO トラベルや、GO TO EATが取り上げられ、政府の援助も受けてゐるが、
GO TO 書店(ネット書店)もあっていいと思ふ。
GO TO トラベルやGO TO EATになってから、本の売上が落ちたやうに思ふ。
コロナの初期の頃は、自宅に引き篭もってネットで本を購入していただく機会が多かったやうに思ふが、GO TO トラベルやGO TO EATになって、そちらにお金を投入することになって本を買わなくなってしまったのかなと思ふ。
なかなか難しいところだが、本も買って!
とある先生から言はれた。
自分の言動はネガティブな発言が多く、それが自分の現実を作ってゐると。
確かに自分は自分を愛してゐない。
でも腹が立ったりするのは自分を愛してゐるからか(笑)。
自分は自分を愛してゐないから、いろいろいやなことが起るのか。
自分を愛することは簡単にできないが、自分を大切にすることならできそうだ。
とりあへず、忙しすぎて対応マシーンになるのはやめよう。
疲れたら休むようにしよう(笑)。連絡しなくなってもすみません!
右腕にいろいろやってもらう。その前に右腕をつくらないといけないが。
今までつくろうとしてきたが、全然できなかった。またネガティブになってきたな(苦笑)。
織田信長には右腕はいなかった?
豊臣秀吉には右腕はいたか。黒田官兵衛? 豊臣秀長?
徳川家康の右腕は、本多正信? 天海?
よく駅のポスターやアナウンスで「困ってゐる人に声を掛けましょう」と呼び掛けてゐる。
(駅以外でもやってゐるのかもしれない)
これは誰が呼び掛けてゐるのか? 国の行政機関?
だうして呼び掛けるやうになったのか? (誰かor何かのさしがね?)
駅の従業員だけでは対応できず、みんなの手を借りたいから? みんなの親切心を頼りたいから?
本来なら、そんな呼び掛けがなくても助けるのが人の何とか。
韓国人やアメリカ人なら、変な声掛け運動なんかなくても助ける。
日本人は、恥ずかしがり?なので、困ってゐる人がゐても見て見ぬふり。
まわりの目を気にする。助けたいと内心思ってゐても助けられない。
それで、上?からの声掛け運動?
でも何か変。
何なのかな、この国民性は。
(海外講師のワークショップでもそれは如実に出る)
グルジェフは、高次感情センターと性センターは同じ水素の数、つまり同じエネルギーで働くと言った。高次感情センターは覚醒を司る。つまり覚醒のエネルギーと性エネルギーは同じものなのだ。
これは、体感的(感覚的)にもわかることのやうに思へる。これは肉体的な行為とは何の関係もない。意識エネルギーのことだ。意識エネルギーが性エネルギーでもあるのだ。
(これは非二元的なエネルギーだからだらうか?)
グルジェフは、性エネルギーが純粋に働いたらすごいことになる、と言ったが、それは性エネルギーは覚醒レベルで働くからだ。
ただ、性エネルギーは反面、想いや事物に自己同一化しやすく、「眠り」のエネルギーにもなってしまふ。
またしてもグルジェフだが、性エネルギーは「誤用」されやすい、と。それは「無用な熱狂」として現れると言ふ。スポーツなどは性エネルギーの誤用の典型だ。サッカーなど「無用な熱狂」そのもの。
自分は悟れないとすれば、そして眠りのまま生きないとすれば、だうなのか。
悟り=超越者=神=キリストをあてにして生きることになる。
自己と悟りは違ひ、悟りは外在でも内在でもなく、自他を超えたところにある。悟り=神。
縦軸。垂直。
自己は、神(悟り)をあてにして(あてにしてゐることを自覚して)生きる。
キリストを着て生きる。
多くのスピリチュアルの人は「自己」表現をしたいだけのやうに見える。
表現をしたいといふのは人間の欲求としてあるが、「自己」表現となると何か微妙な様相を呈してくる。
「表現」といふのは本来、自己を滅することなのではないか。表現に徹するといふか。
表現に徹することによって、何かが顕れるといふか。
たとへば、
祈り – ラ・フォリア Corelli (袴田美穂さん演奏)
悟りにおいて、「自己」が必要ないやうに。
「何か」といふのは垂直のものか。
悟る「人」はゐない。つまり誰でも悟れない。悟る必要がないのだ。
われわれは手足と頭と感情であればよいだけ。
それを徹底するだけ。
あとは「何ものか」が運行する。
空(くう)でもいいし、広大さでもいいし、造物主でも、神でも名前は何でもいい。
心(マインド)は、心として機能していいし、それだけだ。
「目覚めるため(覚醒するため)の情報を提供する」といふ会社の理念も、それを伝へることなのか。
ノーセルフ(無我・無自己)とノーマインド(無心)は似てゐるやうで違ふ。
11月に刊行予定の『無限との衝突』の著者のスザンヌ・シガールさんは、突然、自己が抜け落ちてしまって、それ以来自己がないまま生きてきたといふ(40歳代で脳腫瘍でなくなられましたが)。
自己が抜け落ちた人で他にもバーナーデッド・ロバーツがゐる。『無我の体験』の著者だ。
道元禅師も落ちたのかもしれないけれど。「心身脱落」といふ言葉を残してゐるので。
「菜穂はゐない」とふ名セリフを言はれた大和田菜穂さんも自己が落ちたのかな(笑)。
スザンヌ・シガールさんは、その本の中で「無我・無自己であっても心は働く。恐怖心も持つ」と伝へてゐる。
思考(マインド)はあってもいいのだ。
ただ、主体はゐなくて思考や感情だけが動いてゐる。機械のやうに。
「だうでもいい」「だうしたらよいかわからない」といふ思考や感情もただの働きだ。
主体(自己)はゐない。
だから道元も「只管打坐(しかんたざ)」ただ坐ると言った。主体がゐないで坐るのだ。
修行する主体はゐない。「只管打坐」は本来修行ではないが今の曹洞宗では修行になってゐて矛盾してゐる。
修行は、いろいろなメソッドは、エゴ(マインド)の働きで、それ自体エゴを超えられない。誰も悟れない。悟った「人」はゐない。
思考や感情に自己同一化したとき、エゴ(自己)が生じる。
けふの音楽は、ジャスムヒーンさんが紹介してゐたYellowBrickCinema
どれを選んでもいいと思ふ。そのときの気持ちで。
「まう、だうでもいい」「だうしていいかわからない」といふ(苦悩の)思ひの意識が問題を作り出してゐる。
その思ひがなければ、「だいでもよい」「だうしていいかわからない」といふ思ひが消えてしまふ。
さういふ思ひが消えてしまへば。
だうしたらその思ひが消えるのか。
そのこと自体の気づきが、消へてしまう一歩か。
その思ひが消えてしまへば、すべては解決してしまふ。
けふの音楽。モーツアルトのフルートとハープの曲。安らぎの曲