仏教の流れ

ブッダ自身の悟りの内容は不明だが、小乗仏教(上座部仏教)では人生は諦めるしかないみたいな教えで救ひはない。原始仏教(小乗仏教)と言はれるものには何の救ひもない。(救はれた人がゐたのかな)
覚的世界への言及もない。
空(くう)や唯識で悟りの世界を端的に示した大乗仏教は、悟り・覚醒の世界を如実に示してゐる。
後期仏教の密教では、氣やイメージを使った念力みたいなものになり悟りの世界から遠ざかった。
それをゾクチェンが悟り・覚醒の世界へと戻した。
禅もゾクチェンと共通のものがあり、密教や観念的な仏教から悟りのほうに戻した。
その禅も今では形式化し、悟り・覚醒にはつながらない。今は非二元・ノンデュアリティが悟り・覚醒を受け継いでゐる。
キリスト教神秘主義やイスラム教神秘主義(スーフィー)も覚醒・悟りを伝えてゐるが、今は非二元・ノンデュアリティだ。

非二元・ノンデュアリティを理解できない人は多いがやむを得ない。
霊能者も非二元・ノンデュアリティを理解できない。それは全然別のものだから。

基本、大元は、覚醒(主客を超えたものを感得すること)だ。
救ひがあるとしたらそこにしかなく、エゴがあるうちは救はれない。
エゴがあるうちは、主客を超えられないから。
エゴがあるうちは、救ひがないから。

人間は何故こんなに働かないといけなくなったのか。

他の動物たちは、食べるためにそんなに働いてゐるやうに見えない。ダラダラしてゐるやうな(笑)。
それに反して、人間は何故こんなに働かないといけなくなったのかな。
たくさん働かないと食べていけない。
たくさん働いても収入が少ない。
ほんの一握りの人だけは裕福なのだろう。彼らも忙しいのか。

人を働かせるやうになったのは、農耕社会になってからか。組織化されて統治者と労働者に分かれ、規則的に働かされる体制になった。農耕社会の次に出現した工業化社会になって、もっと働かないといけなくなり、さらに情報化社会になって、さらに働かないといけないくなった。
いったい何なのか。

何ものかに駆り立てられてゐるのか。外なるものか、人間といふ生物の性質の中に組み込まれてゐるものなのか。
一旦組織化されてしまったら、まっしぐらなのか。
シュメール(チグリス・ユーフラテス文明)から始まり、世界中にこのシステムが広まったのか。

今にゐる

4月下旬くらいに出す予定のトニー・パーソンズの『この自由』で、トニー・パーソンズは「『今にゐる』『ありのままに委ねる』といふのはいずれも状態であり、状態であるといひことは一時的であるため、いずれなくなってしまふことは避けることができません」と言ってゐる。

「今にゐる」は、状態。
相対的なもの。