人間第四番

グルジェフは、人間の七分類で、人間第四番が、覚醒過渡期の人間といふ。
人間第一番が、肉体メインの人間。
人間第二番が、感情メインの人間。
人間第三番が、思考メインの人間。
人類の99.9999999…パーセントが、第一番から第三番の人間だ。
一瞥体験(自己想起)が数回から数万回の人間が人間第四番。
覚醒がほぼ定着した人間(覚醒が主軸になった人間。外的なものに影響されなくなった人間)が、人間第五番。
一瞥してから第五番に移行できる人間は、早い人であれば数カ月なのかもしれないが、
通常は数十年掛かるやうに思ふ。
人間第四番の時期は結構長い。グルジェフは結晶化といふ。
完全覚醒した人間は、人間第七番。ラマナ・マハルシのやうな人間。
人間第六番は、人間第五番と第七番の中間。

人間第七番の人間は、ほぼゐない。

覚醒とか悟りとかを流行り始めてから(笑)、人間第四番が増え始めた。
人間第五番も、少しではあるけれどゐる。

グルジェフのいふ客観芸術は覚醒芸術

グルジェフは、芸術を客観芸術と主観芸術に分けた。主観芸術は作家なりが単なる妄想やエゴで作ったものであり本当は芸術ではないといふ。真に芸術たりえるのは客観芸術のみだと。
妄想やエゴから作られたものは価値がないといふことであり、妄想やエゴからではなく作られた作品が真の芸術である。
妄想やエゴではないといふことは、覚醒してゐるといふことだ。覚醒の芸術といふこと。
芸術作品を見るとき、また聴くとき、そこに妄想やエゴがあるかだうかが判断基準になる。

音楽の場合は、曲それ自体が客観(覚醒)芸術かどうかということと、演奏家が妄想とエゴで演奏してゐるのか、それを超えて演奏してゐるかといふことの二つの局面がある。妄想とエゴを超えた演奏は感動をもたらす。

覚悟に救ひはない

いくら神だのみしやうと、苦悩は消えない。救ひはない。
苦しいうちは、ただ「神よ、お救ひください」と叫ぶのみ。
苦悩のまま。苦悩は終わらない。

まうダメだと、覚悟を決めたら、神への救ひもへったくれもない。
覚悟に救ひはない。

死人で生きていくしかない。

苦悩があるうちは悟ってゐない

いくら覚醒体験があるとしても、苦悩があるうちは悟ってゐるとはいへない。

自分は、苦悩だらけで、悟ってゐない。

悟らなくても、苦悩を消す方法として、「覚悟を決める」といふものがある。
「覚悟」といふ漢字字体は、さとりだが(笑)、「覚悟」はさとりではないやうに思ふ。

覚悟を決めたら、まう希望はない。なんの望みもない。死を決するのみ。

「腹をくくる」ともいふ。

覚悟すると、思考が停止する。

とりあへず、覚悟を決めて、いろいろな手を尽くせるものは尽くしてみて、あとは死を待つのみか。
死ななければ、とりあへずの幸せなのかな。

未来予想からくる苦悩とあがきか、覚悟か。

魂のこもった演奏

同じ演奏でも、魂のこもった演奏と、さうでない演奏がある。
魂のこもった演奏は、音楽の精霊が演奏家に息吹きを吹き込んで音楽が奏でられていく。それが聴く者を感動させる。
魂のこもった演奏は、魂がのった演奏。
その演奏には、何か真実がある。

魂のこもった演奏は、魂を込めようとした演奏ではない。さういふ演奏には真実がないやうに思ふ。
演奏者の内側からにじみ出る何か。

人生の目標や会社の理念は観念

11月頃に出版予定の金森さんの新作は小説形式でけっこう面白い。
いろいろなことが会話で展開されるが、「人生の目標はただの観念」みたいな会話もある。

人生の目標なんて、頭ででっち上げたもの。使命も同じ。エゴ。
実際には何もない。
ただ流れがあるだけ。

弊社も会社の理念として「人々の目覚め」を掲げてゐるが、これも頭だけだ。
たくさんの目覚めの書を出してきたが、いくばくかの人たちの目覚めの役に立ってきたのかな。

「人々の目覚め」が単なる観念ならば、会社存続の意味は?

何のためといふ妄想で生きていくのはいつかおさらば。まうおさらば?
そのとき会社はだうなってゐるか。
なるやうになってゐるのか。