パウロの言葉に「最早われ生くるにあらず、キリスト我が内に在りて生くるなり」といふのがある(ガラテヤ2・20)。
これは『よひとやむみな』のエゴを捨て内なる神が生きるようにする、と同じ意味。
うちに神があって、それが働くようにする。エゴはそれに仕え、邪魔しないやうにする。
「身魂磨き」とはこれのこと。
オイゲン・ヘリゲルの『弓と禅』では、練習中のヘリゲルがいい動きをしたときに師がそこに仏陀を見、お辞儀をするシーンがある。
これも、うちなる仏陀・キリスト・神が働いたものだらう。
神が宿る、ともいふ。
入神。神が入ってゐる。
覚醒(一瞥)によって、外なる神を見出し、やがてエゴが抜け落ちていくと内に神を見出す。
バーナデット・ロバーツの『無自己の体験』『自己とは何か』で、その流れがわかる。
自分は全然、神が生ききれてゐない。
そうですね。それと似た言葉で、一遍上人による、
「仏こそ 命と身とのぬしなれや わがわれならぬこころふるまひ」(播州法語集)
というのも思い起こされます。
ありがたうございます。
一遍上人も感得してゐたのですね。
浄土系は妙好人といふ人たちがゐますね。
一遍上人には、下記の句もありますね。
「となふれば仏もわれもなかりけり南無阿弥陀仏なむあみだ仏」