自己と意識と

6月の新刊3冊とスタピの入稿が重なり、結構きついぜ。
それに増刷分の対応と。

ウエサクの満月の影響か、精神的にも安定しないぜ。

資金繰りもかなりキツいぜ(苦笑)。

女の性質についても書かうと思ったが、タイミング的に難しいのでいずれ。

自己と意識の相関は如何に。
小さいときに自己意識(自我)に目覚める。
それ以前に意識はあったやうな。
また自我が脱落(とつらく)しても意識はあるやうな。
どこまでも意識はあり続ける。
意識があるとき、自己もある。I AM(われ在り)

電車に乗ってゐて、乗客を見てゐると、大部分の人がスマホに没入してゐる。
その世界にはまってゐる。
異様といへば異様な状況だ。
その人たちの意識世界がスマホの中にある。
だが、スマホを見てゐる自己認識(自己意識)はない。

スマホの世界は、眠り(想ひ)の世界であり、覚醒してゐない。

路上で通り過ぎる人も眠ってゐる。想ひにふけってゐる。目覚めてゐない。

もし、ほとんどの人が目覚めてゐたら世界はだうなってゐるのだらうな。

みんなの意識が開かれてゐると、電車の中でも、路上でも、一体感の意識の中で過ごすことになるのか。

ウエサク

今日は5月の満月の日、ウエサクの日

アセンデッド・マスターの祝祭日である。といふことは覚醒の祝祭日でもある。

多くの人が今日のエネルギーで目覚めますように!
自分自身も目覚めますように。

練神還虚

仙道の技術に、練精化気、練気化神、練神還虚、還虚合道といふものがある。
人間の構造を、精気神の3分類で分けてゐる。精は物質性の強いもの、気は気、神は意識。
グルジェフの動作センター、感情センター、思考センターにも通じるものがある。
仙道もグルジェフもどちらも物質的に人間の構造をとらへてゐる。
低次の物質から高次の物質への変換を説いてゐる。

練神還虚とは、練気化神で練った陽神(聖胎・玄胎)(トゥルパ?)を頭頂から出神させて、不滅の身体を作っていくことと一般には言はれてゐる。

それとは別の見方もあるのではと思った。
それは、覚醒のことであると(笑)。
練神とは、意識を練ること。還虚とは意識が虚空の意識まで広がること。還ること。つまり覚醒意識になることだ。
還虚合道とは、覚醒意識になって道のままに生きていくこと。道と一つになること。

仙道は物質的な見方が強いけれど、実は覚醒の道なのかもしれない。

ビリー・ドイルさん

この3日間、『カシミールの非二元ヨーガ』の著者、ビリー・ドイルさんのワークショップだった。

ビリー・ドイルさんもしっかり非二元の人だった(笑)。

ラマナ・マハルシやニサルガダッタ・マハラジやクリシュナムルティに興味を持ち、
インドに行ったそうだが、ジャン・クラインに会い、生きた師として師事したとのことでした。

ビリーさんはもともとヨガ・ティーチャーで、ジャン・クラインもヨガのマスターだったやうです。

ビリーさんに、いつ覚醒(悟り)しましたか?と質問したら、ジャン・クラインが亡くなって
9年後に覚醒が起ったそうですね。
イギリスの地方の町で、朝食後、庭を歩いてゐたら、突如、開放が起きたやうです。
自己が抜け落ち、非二元で言はれてゐるやうな意識になったとのことでした。

次回はリトリートをしたいと言はれていました。
実現できたらいいなと思ひます。

覚醒夢

明晰夢は、自分が夢を見てゐることに気づいてゐる夢だ、
覚醒夢(自分が作った用語)は、それとは違って、夢の中で覚醒してゐること。
一瞥みたいな覚醒の経験が夢の中で起こってゐる。
夢であることには気づいてゐないが、覚醒してゐることには気づいてゐる。

こんなことってあるのだらうか?

一瞥なんてただの夢だといふ証拠か。

クリシュナムルティは夢を見ないと言ってゐたといふが。

覚者は夢を見ないのか。

ハリー(ハラランボス)さんが昇天した

私は何のために生きているのか?』の著者で『エソテリック・ティーチング』『エソテリック・プラクティス』の監修をしていただいた、そして、日本のダスカロスの会を指導していただいた画家のハリー(ハラランボス)・ランバートさんが昇天したといふことを伝へ聞いた。

書籍についてもいろいろ関わらせていただき、十数年前、キプロス島でのダスカロスの娘さんのパンナヨッタさんとの面会に同行していただき、いろいろサポートしていただいた。

無私の人で、とても優しい人でした。
多くの人に親しまれてゐました。

純粋で、真理のみを伝へやうとされ、ダスカロスの教へに忠実でした。

天国では、今頃、ダスカロスと会ってゐるかもしれません。

感謝にたへません。

天国で安らいだのち、われわれのためにサポートされんことを祈念します。

スクリーンを見てゐるものとは?

よく人生は映画にたとえられて、人生はスクリーン上の光の動きでしかないみたいなことが言はれる。
根底にある空(くう)、包括者の上で動いてゐるのだ。

では、そのスクリーンを見てゐるものとは誰か? 自分とはそのスクリーンではないのか?
スクリーン(対象)と自分(主体)との二つがあるのか。
その二つは一つなのか。
主体とはなにものか。

なぜ発生したのか。
気づいたら自分がゐた。

そして他者や他物があって、空があって、スクリーンがあって・・・

苦しみは手放さない

グルジェフは、人は他のものはすべて手放すが苦しみだけは手放さないと言った。

今日のゲート氏のお話会で、ゲート氏は苦しみを手放すことを強調していた。
グルジェフに通じると思った。

ゲート氏は、<私>が創造主なので苦しみを創り出す必要はないと言はれてゐた。
幸せを創ればよいと。

グルジェフは、人は為すことができないと言った。なぜなら機械だからと。
<私>に目覚めた真の人間だけが為すことができると。

<私>に目覚めなければならない。I AM(われ在り)

真剣度

今日は、ゲート氏の大阪ツアーのお話会に参加した。

出家、精神の出家について話されてゐた。

悟りを得るためにすべてを捨てるか否かを問ふてゐた。

捨てるものは、物質的なもの、感情的なもの、知性的(思考的)なもの。
それらがすべて捨てられたら、それ自体悟りだと思った。
道元禅師の心身脱落である。

自分にそれだけの真剣度があるのかどうか。
経営も厳しくてアップアップしているところで、悟り・覚醒への関わり方の度合いを問はれてゐる。

話題が変はるが、ゲート氏の話とは直接関係ないかもしれないが(あるかもしれないが)、話を聞いてゐて、
主観と客観の同時認識が覚醒ではあるが、その同時認識してゐる認識が客観(物質・対象世界)を
規定してゐるのかなと。
そこに「想ひは実現する」の秘密、認識論と存在論のの相関性のカギがあるのかもしれないと思った。

ゾクチェンのマスターが、悟りの認識を通して自分の身体を虹の身体に変性させていく秘訣は、
その辺にあるのかなと。