悟りの基本は、自己知

年末の掃除で家の換気扇を掃除していたら、何年分か溜まってゐたのか(前に借りてゐた人の分も?)、どぼどぼほこりが落ちてきた。マスクをしてゐたけれど、ほこり吸いこんでしまったようで気管支がやられたのか咳が出るやうになった。頭もちょっとふらふら。
パソコンの内部のほこり掃除をしたあとも体調をこわすので、ほこりには弱いらしい。
(ほこりには風邪の菌が溜まってゐる?)

20世紀の代表的な覚者のラマナ・マハルシにしても、クリシュナムルティにしても、グルジェフにしても、覚醒する(悟る)ために自己知を説いた。
自己知こそ、悟りのキーポイントである。
非二元難民が救はれるためには、自己知が必要だ。
自己知は会得するまでは難しいが、コツをつかめばあとは楽だ。
ただ人は簡単に想いの世界にひきづらてしまふ。
それで何度も自己知をすることになる。
その辺のいきさつはマクドナルド・ベインの『解脱の真理』に書かれてゐる。

悟ると苦脳しなくなると言はれてゐるが、自己知のときに苦脳する主体(エゴ)は消えてゐる。
自己知からエゴに戻るとまたエゴが出て苦しむことになる。

どこかでエゴに戻らなくなるときがくるやうだ。
アジャシャンティにしろ、松本自證さんにしろ、ほかの人にしろ・・・

自己知をしてゐる主体こそ「真我」と言はれ、「神」と言はれてゐるものだらう。

今は、非二元の情報が出始めたばかりで多少混乱状態かもしれないが、
やがて落ち着いてきて非二元や悟り・覚醒について社会的に明確になってくるのかもしれない(なってほしい、笑)。

日本にもたくさん悟った人が出てきてほしい(隠れずに)。

怒る人は悟ってゐない

「怒る人は悟ってゐない」と島田明徳氏は本で書いてゐる(『気の輝きに包まれて』)。

俺は怒りまくってゐるので悟ってゐない(笑)。

なぜ怒ることは悟りではないのか?

大元とつながり、大元で生きてゐたら怒りは生じない?
自他が一つのものとして認識して生きてゐたら怒りは生じない?

怒り以外にもネガティブな感情は生じない?
苦悩も生じない?

自己が抜け落ちてゐるから怒りが生じない?

交渉は苦手

交渉ほど人生の中で嫌なものはない。
この世で、交渉といふものがなくればよい。

それぞれのエゴと要望と生活が掛かってゐて、
それに対して調整しないといけないことは
うんざりするほど、へどが出るほど嫌だ。
死ぬほど嫌だ。

交渉が得意な人に譲りたい。
交渉から解放されたい。

交渉して100戦100敗。
今年もそれで何冊も出版がぽしゃった。
人間関係も悪化した。関係も途絶えた。
これかも同じことが起こるだらう。
俺に交渉させるのは間違ひだ。

交渉していいことなど何もない。
この世の中から交渉といふものがなくなればいい。

出版社は、いきがらないと

出版社は、いきがらないといけない。
弊社も創業のときはいきがって、いろいろこれでもかみたいな本を出してきた。
でも、ネタギレか最近はみんな二番煎じ的で新しいものが少ないせいか、これでもかみたいなものが出せてゐない(苦)。(どこも出せてゐない)
いきがりも足りない。
俺が年取ったせいもあるのか。
世代交代の時期か。
年取ってもいきがれるのか。

非二元を中心に、宇宙の根本的な仕組みを示したもの、ゾクチェンのこと、願望実現のような若い時の熱情ではない生き方の本とか。エソテリックな本とか。神道や霊的未解明なことの探索とか。
高次の意思を表現したものとか。
アスペルジェス・メ

氣にしないといふ選択肢

今年はやることなすこと齟齬をきたした。
12月は交渉もうまく行かずぽしゃったり、いろいろだった。

12月は水星の逆行(23日まで)でコミュニケーションがうまくいかないらしいが、
他の方々もさうだといふ話を聞いた。

土星が山羊座に20日に入ったさうで、それで何かが変はるらしい(笑)。

まあ、天体の運行でわれわれの精神状態は影響を受けるらしい。

それはともかく、人と接してゐるといろいろ不愉快な思ひをする。
まう感情的になって壁を叩きたくなる(苦)。

南方熊楠も感情的になって、ちゃぶ台をひっくり返したらしい(NHKの知恵泉)。

人から何を言はれやうが氣にしなくなれれば、それが一番いい。
一休さん曰く「氣にしない、氣にしない」

対処しないといけないことは対処し、あとはその人の言ひ方に問題があるのであって
自分とは関係ないと思へば。

あとを引くのは、悟りではない(大笑)。
禅語録で、あとを引く話はたくさん?出てきてゐて、師にこっぴどくやられてしまふ。

あとを引かなければ、即ち悟り。

食あたり

昨日、居酒屋で食べた海産物にあたったのか、胃に激痛が走り、かなりの時間もがいた。

胃痛はおさまったが、体調はイマイチ、微熱もある。
仕事も捗らない。

二日酔いはしょっちゅうだが、かういふのは久しぶりだ。

神は人の願望の道具?

神や天使や日本の神々は、人の願望の道具、使ひぱしりなのか?
天使は、天の使ひであって、人の使ひではない。
使ひぱしりは見当違ひのやうに思ふ。
日本の神々もさうだ。

神(絶対神)は、二元を超越してゐるがゆえに、人の二元的な願望には関心がないやうに思ふ。

ただ、奇特な存在もゐる。
菩薩は、特に観音菩薩は、人々のあらゆる苦しみを救ふという望みを持ってゐるらしい。
イエスは、上着をとられたら下着も与へなさい、と言った。
相手の願望をかなへる、かなへたい存在もゐるやうだ。

人間としてはだうなのだらう?
相手の願望をかなへてあげたいだらうか?
相手の願望の使ひぱしりになれるか。

さういへば、居酒屋の挨拶で、
「はい、喜んで」といふのがあった(笑)。

アメリカ人は、人に対して「何か助けてあげられることはありますか」(May I help you?)といふのが口ぐせらしい。

人間の願望実現のためには神々や天使、霊に頼らず、人間がかなへてあげればいいのかもしれない。
他人が何か望んでいたら、「はい、喜んで」助けてあげられたら。

言葉の力

言葉には願望実現する力がある、といふ話ではない(笑)。

言葉の力、といふか詩の力といふべきか、言葉には独特のイマジネーションの力があり、それがグッと心に迫るといふか、独自の力、魔術がある。

それは今日、忘年会の二次会のカラオケ屋さんで、カラオケの歌詞を見ていて感じた。
作詞家は、工夫しながら言葉を紡ぎ出してゐる。見事な言葉の数々。

その中で感心したのは『なごり雪』の詩の中の「時がゆけば」という言葉。
時がゆく、とはだういふことだらう?
そこにはいろいろな要素が入ってゐる。入り過ぎるほどに。
その言葉だけで、圧倒されてしまった。

言葉といふものはこの世的で、二元的なものではあるが、
言葉を駆使することは、魔術をつくりだす。

初めに言葉ありき。

苦難とか試練とか

苦難とか試練とか一言で言はれるけれど、二語の言葉以上にきつい。
そして、自分の苦難のきつさはわかるが、人の苦難のきつさはわからない。
平気で人を傷つけてしまふ。

一瞥(小悟)しても苦難は消えない。
悟り(大悟)を得たら苦難は消えるのか。

イエスは苦難を感じたか。

祈っても苦難は消えない。
ただ耐える力は得られる。

イエスとは何者?

熱い男?(笑)
30代前半でなくなったとされてゐるので(実は何歳まで生きたかは諸説あるが)、若いイメージがある。
中年や老年のイエスはどんな感じになってゐたのだらう?
もしその世代のイエスがゐたら、自分にとっても参考になるのかな。若いイエスも参考にはなるが。

神を宿したイエス。

一人で世界をひっくり返してしまった人。

人類にとっては永遠の課題。

来年、イエスの本を何冊か出していくけれど、どんな感じで傳はっていくのかな。

人々の悲しみも苦しみもすべて背負うといふ・・・