宮崎アニメのシーンでは、空を飛ぶシーンが多い。
その空のシーンが立体感といふか時空に対する認識の変換をもらたす。
宮崎アニメのシーンでは、空を飛ぶシーンが多い。
その空のシーンが立体感といふか時空に対する認識の変換をもらたす。
今のスピリチュアル状況はパッとしてゐないやうに見える。
これといったものがない。
ほぼ出尽くしたからか。
スピリチュアル初心者には、いろいろ目新しいものがあると思ふが。
知識としてはだいたい出尽くしてきたが(真理に新しいものナシとも言はれるが)、
精神性が高かったり、能力が優れたりといふ人もあまりゐないのかな。
スピリチュアルが普及し過ぎて一般化して、そういふ特化した人は目立たなくなったか。
コロナやウクライナで、スピリチュアルが弱まったか。
陰謀論が一時期流行ったが、今は落ち着いてゐるやうに見える。
常時覚醒してゐる人はともかく、常時覚醒してゐない人にとって、磁石の針のように常に覚醒に向くように仕向ける癖(条件反射)が必要だ。
何かの折に、すぎに覚醒の方向に向き直る。
普段、事物に自己同一化して、眠りに陥り埋没化しているが、パッと切り返しができる磁石(コンパス)の状態になってゐると覚醒に向かえる。
磁石化してゐない鉄が、磁石にずっとくっついてゐると鉄が磁石化するやうに、
人間も覚醒の何かにくっついている時間が長いと、覚醒に向かう磁石になるのかな。
さういへば、グルジェフはマグティック・センターと言ってゐた。
超越者=内在神=真我であり、同一のものを指すが、
超越者といふと、外部にあるやうなイメージになってしまふ。
外のその向こう側ではあるのだが。
それよりも世界と自己の内在として見たはうが、それを保持しやすいやうに感じる。
真我としてみたほうがより保持しやすい。
「真我を感じる」といふマントラ(アファーメーション)がいいやうだ。
人によって覚醒を呼び込むものは違ふと思ふし、
パウロの「キリストを着る」でもいい。
覚醒してゐる人は、さういふ呼び込むものは必要ないと思ふが。
真我と自分は違ふもの。
スポーツは、対象に自己同一化して眠りに落とす覚醒とは真逆のもの。
グルジェフは無用な熱狂を伴ふと言った。
小説も物語の世界に没入させて、スポーツと同じやうに眠りに導くのか。
小説も芸術であるならば、眠りとは反対に覚醒に導くもののやうにも思ふのだが、
スポーツと小説の違ひは何なのだらう。
小説(劇)はカタルシスをもたらす、とアリストテレスは言ふ。
小説は内部運動で、内部の何かを動かし、それを昇華へと向かはせるのか。
内部の何かとは感情か。情念か。
小説のあの読後感とは何なのか。呆然とするものとは。
グルジェフは覚醒していくためには第一のショックである「自己想起」(主客の同時認識)以外に、「不快感を表現しない」という第二のショックがないと先に進まないと語ってゐる(『奇跡を求めて』で)。
「不快感を表現しない」といふのは、前回書いた「ゆるしによって怒りが消える」といふことに通じる。
「ゆるし」が第二のショックなのだ。
「自己想起」以外に「ゆるし」を行わないと覚醒が定着しないのだ。
覚醒の書である『奇跡のコース』で「ゆるし」を説くのも、さういふのに関連してゐるのかな。
今まで、ゆるすといふのは傲慢なことだと思ってゐた。
ゆるすほうが上の立場で、ゆるしてやってゐるイメージがあるからだ。
また、「ゆるす-ゆるされる」というのは二元の世界のことであり、超越世界(非二元)では意味をなさないと思ってゐた。
ただ、
相手が気に食わない言動をしたとき、カッとならずに、その言動をゆるしたら、冷静に思ひやりをもって接せることができる。怒りを収めることができる。
ゆるしと怒りは双対なのだ。
怒りは他人ばかりではなく自分にも向かう。間違った、愚かな判断をして物事が駄目になるとき、自分(の判断力)に怒りを向ける。ここでも、自分の判断力をゆるしてしまえば、怒りが消える。
ゆるしは怒りを消す効能があるのだ。
人は何がしかに怒ってゐる。常に不満をもってゐる。
そのときに有効なのが「ゆるし」だ。
グレン・グールドが奏でた頃の曲想は、その時代の時代精神を反映してゐた。
それらの演奏は今も愛でられ親しまれ、普遍性をもってゐる。
現代の演奏家は、今の時代精神を反映してゐる。
それはグレン・グールドとは違ふが、現代の様相を表現してゐる。
精神世界、スピリチュアルも時代精神を反映する。
時代精神を踏まえながら、どう発振していくかが出版社の役割だ。
サンマーク出版さんあたりは、うまく発振してゐる。
うちはうまく発振できてゐない(苦)。
時代精神の中で発振したものは、その時代を象徴したものとして後世に残り、
その時代の文化として位置づけられる。
今、時代を切り開かないといけない時代と思ってゐるが、切り開く何かがあるのかだうか。
天才は必要だ。
前回、書いたことは酔ってゐて書いてしまって、ほとんど憶えてゐない(苦笑)。
いろいろ大変過ぎて、いろいろ案を出して乗り切らないといけない。
人の言ふことは参考にするけれど聞く必要はない。だうするかはこちらの判断。
基本としては、救ひは、幸福は「超越者を感じる」ことだけ。
ヒルティの「神のそば近くにあること」、スーフィーの「照明体験」。
悟りは、自分には無理。
「超越者を感じる」ことに向かうだけ。