不愉快なことがあると、「不快感を表現しない」といふことがなかなかできない。
それに「自己同一化」し「内的考慮」(ああだかうだとじくじく考えること)をしてしまふ。
「内的考慮」をしないためには、「愛の道」をいく必要がある。
「愛の道」をいけば、愛に徹してゐれば「内的考慮」をしないですむ。
相手の氣持ちを慮り、思ひやりをもち、「外的考慮」もできる。
「愛の道」を行けば、自己が落ちる。
覚醒の空間がひろがる。
不愉快なことがあると、「不快感を表現しない」といふことがなかなかできない。
それに「自己同一化」し「内的考慮」(ああだかうだとじくじく考えること)をしてしまふ。
「内的考慮」をしないためには、「愛の道」をいく必要がある。
「愛の道」をいけば、愛に徹してゐれば「内的考慮」をしないですむ。
相手の氣持ちを慮り、思ひやりをもち、「外的考慮」もできる。
「愛の道」を行けば、自己が落ちる。
覚醒の空間がひろがる。
今日も嫌なことがあった。
(開運行為を昨日行ったが、全然効果がなかったか、好転反応か)
その記憶で不愉快な気持ちが続いてしまった。
不快感の表現をしない訓練をするにはいい機会ではある(苦笑)。
さういふ意味では感謝だ(苦)。
よく禅僧の話で、弟子が何かの記憶(食べ物等)にひきづられてゐて、
それを禅僧が諫める話があるが、自分も記憶にひきづられてしまふ。
だうでもいいと思へればいいのだが、記憶がよみがえってきてどうしようもなくなる。
それでも不快感の表現はしないやうにしようと思ふ(苦)。
禅僧は記憶を超越してゐるのか、忘れてしまふのか。感じないのか。
不快感を表現しない訓練中が、グルジェフのいふ「人間第4番」の状態だ。
不快感を表現しない禅僧は「人間第5番」だ。
早く渡りきりたい。
不快感を表現してきた人生が長いな・・・
グルジェフの第二のショック「不快感を表現しないこと」は、自己(エゴ、自我)がないときに実現できる。
自分があると、何かあったときに不快に感じてしまふ。
自分がないと、何を言はれても不快に感じない。
グルジェフの第二のショックは、無我(ノーエゴ)の訓練(道)である。
自己想起をし、その次に無我。
グルジェフは内的な進化の道として、最初に「自己想起」(見てゐる自分を見ること)を説く。
これが、第一番目の意識的なショックだ。
そして次の第二番目の意識的なショックとして、感情に働きかける、「不快感を表現しないこと」
「自己同一化、内的考慮をしないこと」を説く。
この二番目のショックがない限り、高次感情センター(もそれに続く高次思考センター)は機能せず、
内的進化も起らない。
自分の場合、不快感を表現しなくりだ。全然、二番目のショックができていない。
これからは、その辺を取り組むのが自分の「ワーク」なのかな。
最近、年のせいか氣力と體力が低下してゐる。氣力が出ない。
出すべき本をだいたい出したせいか。
一時期、「老人力」といふ言葉が流行ったが、ある年代に達すると、若さのバリバリといふふうにはいかなくなるのだらう。欲も衰えるのだらう。
なんの欲もない(といふとウソになるが、笑)。
(音の追求といふのが、一つの欲になってゐる)
たぶん、これから出てくる若い人たちのエネルギーといふのも必要なのだらう。
さういふ人たちが、次の時代を作っていくのだ。
それと並行して、「老人力」ではないが、年をとった人たちならではの「何か」が発揮される
必要があるのではないかと思ふ。
欲がなくなった先にあるもの。
氣力がなくなった先にあるもの。
この世に対する欲がなくなったとき、何が顕れるのだらうか。
垂直に顕れるもの。
弊社では、さういふものも提供していきたい。
(それだけでなく、いろいろ提供したいものはあるが、笑)
最近?、一部の人を除いて能力が低下してゐるのを感じる(自分も含めて)。
なぜ、こんなにレベルが下がったのだらう?
(もともとそんなレベルだったのか?)
スマホのせい? おそらく。
単純に見ることができなくなっているばかりでなく、
日本語能力も落ちてゐる。
日本語能力を扱ふ会社で、これは困る。
美しい、通る文章を提供しなくては。
切れるような日本語を読んでみたい。
覚醒系(ノンデュアリティ系)では、「いまここ」が大切といふ。
マインドは、未来か過去のどこかを思ってゐて「いまここ」にゐないから、覚醒すると「いまここ」だけになる。
ただ、「いまここ」だけだと平面だ。ただの現実世界だけだ。
「いまここが天国である」と認識するとき(覚醒するとき)、縦軸として「天国」があらはになる。
「いまここ」という平面と「天国」といふ垂直が交はる。
「いまここ」が逆境といふ状況だらうと「天国」が顕現してゐる。
地獄で天国。
「煩悩即菩提」といふのも、煩悩と菩提が同じものだといふ見方もできるけれど、
横軸と縦軸といふ見方もできる。
煩悩の中にあっても、菩提が顕現してゐる。
今度出す本『何が、起きても、それを、愛する』(マット・カーン著、仮題)に、ペースを落とすことが書かれてゐる。ハートで生きるためにはペースを落とすことが必要だと。ゆったりすることが必要だと。
アラン・コーエンさんも同じようなことを言ってゐる。
今まで、野望を持ち、欲のままにガムシャラに、渇かつとして生きてきた。ああしたい、かうしたいと闘争してきた。そしてストレスを抱へ、酒に溺れ、暴食をし、他のことにも溺れ、頭も朦朧として、いかれた状態だった。
出したいと思ってゐた本(分野)もだいたい出し終わり(まだあるといへばあるが)希望(夢)を失ひ、毎日の多量の事務的な対応に追われ、気力も体力も落ち、精神と神経が擦り減って、不適応状態になってゐた(る)。
今は、ペースを落とす必要がある。
多量の事務的な対応もあまりしたくないし、しないようにしよう。
本も出し過ぎないやうにしよう。
まう、これといった欲もないし。
ゆったりと生きていかうと思ふ。
この世界は幻想であり、諸行無常ではあるが、キリストのビジョンで見ると永遠の相で見える。神の世界が見える。神が常に在る、神とともに在る、神の中に在る。
そこに救ひがあるのだらう。
天国は死んでから行くものではなく、生きてゐながら天国にゐることができる。キリストのビジョンで生きるならば。
使徒たちは、さうやって生きてゐたのだ。彼らには光が灯ってゐた。キリストの光が。
今日お会いしたお医者さんによると、気力と肝臓は関係してゐるといふ。
酒の飲みすぎで、肝臓が弱って、それで気力も出なくなったのかな。
肝臓を大事にしないといけない・・・
と言ひつつ、酒を飲みながら書いてゐる(苦)。