マインド(思考、思念)は、自分(主観・エゴ)と対象(世界)の二元の世界で生きてゐる。
ノーマインドは、自分(エゴ・マインド)が脱落することによって、主客の二元ユニットを超えた様相(超越者)を認識する。非二元の世界を認識する。
マインド(思考、思念)は、自分(主観・エゴ)と対象(世界)の二元の世界で生きてゐる。
ノーマインドは、自分(エゴ・マインド)が脱落することによって、主客の二元ユニットを超えた様相(超越者)を認識する。非二元の世界を認識する。
アメブロからまたこちらのはうに戻ってきました(笑)。
ドメインも変へ、タイトルも「いやいやスピリチュアル」から「ノーマインドの道」に変へました。
最近、ノーマインドがテーマになってゐるので、その名前にしました。
アメブロは、広告が多く煩雑な感じで馴染めなかったです。
スターピープルWEBの「発行人愚言録」でも書いてゐますが、そこでたくさん書くとバランスが悪くなり、個人的な色彩も強くなってしまふので、個人的なことはこちらで書くことにします。
「発行人愚言録」は、スターピープルWEBに関係しさうなときに書いていきます。
よろしくお願いします。
スタッフの意向で、アメブロに移行しました。
https://ameblo.jp/awakeningtrueself
アメブロで人気になって会社の利益になってほしいさうです(笑)。
そんなに人気になるかは定かではないですが・・・
やってみやうホトトギス。
ダメだったらやめてみやうホトトギス。
ここのところ書籍で『ハートの~』といふ本(翻訳本)が2冊、出版が中止となった。
また、日本人の書籍でもハートの本が難航してゐる。
ハートに何かあるのかな。
自分のハートに問題があるのか、それぞれの著者や訳者に問題があるのか、はたまた社会的に何かあるのか。
それとは直接関係ないのかあるのか(笑)、今日、ある霊能者のお試しリーディングで、
自分の過去生が平安時代初期の悪徳僧侶だったと言はれた(爆)。ダークサイドだったと。
その過去生を言はれたのは初めてだが(霊能者はみんな違ふ過去生をいふ)、今の自分はダークサイドなのかもしれない(笑)。
それでハートに問題があるのかな。
ダークサイドとは何か? 暗黒面。
結局、アナキンはどうなったのか。
聖書や仏典を見ると、イエスは祈り、ブッダは祈ってゐない。
なぜ、イエスは祈り、ブッダは祈らなかったのか。
いろいろなものに挑戦しないといけないとき、課題や艱難があるとき、そして不安があるとき、
祈りは必要なやうに思ふ。心の安定のために。
イエスは、使命?を達成するために、祈らざるをえなかったのかな。
命をとした役割を全うするために。
神と自分との語らひの時間が必要だった。それは言葉なきコミュニケーション。
ブッダには、そのやうな課題はなかったのかもしれない。
安らぎの境地にゐればよかったのかもしれない。
梵天から、みんなに悟りのことを教ヘるように、と請はれて教へるやうになったが、
使命感といふほどでもなかったのかもしれない。
祈りには個人性がある。
個人性のない人に祈りはない(いらない)。
祈りには個人性があるが、個人を超えた要素もある。
超越と個とのせめぎあひの中で成り立つ。
非二元と二元との間で成り立つもの。
「目覚め」、「覚醒」は、別の表現では、「氣づき」と表現される。
なぜ「氣」がつくのか? 「氣」と関係があるのか?
仙道では、修練法として「練氣化神」といふのがある。
氣を練って、神(仙道では意識のこと)に変化させていく、という修行。
「氣づき」を通して、「覚醒」を強化していく感じなのかな。
今度出す『悟りを生きる』も、「氣づき」の練習をするようにと書かれてゐる。
訓練をつむことによって、短期間の「氣づき」が次第に長時間の「氣づき」になると。
まさに「練氣化神」だ。
「練氣化神」とは、覚醒法なのだ。
小周天や大周天が、「練氣化神」ではないのだ。
それらはただ「氣」をめぐらせるだけのもの(?)。
6月の末日は、半年に1度の大祓ひの日。
神社では、茅の輪くぐりを行ってゐる。
それに合わせて弊社では、半年の大祓ひで社内飲み会を年中行事の一つとして行ってゐる。
29日に行ったが、スパークリングワイン、ビール、日本酒、赤ワインとチャンポンしてしまって、悪酔ひしてしまった(苦)。昨日、今日と体調がよくない。2日酔ひ3日酔ひ。
アルコール依存症の自分でも、昨日今日はアルコールは飲めなかった(笑)。
今年も半年が終り、気候は夏真っ盛りの状況だ。
今日、サヤーダさんのセッションを受けた。
自分の決断で最近行ってゐないと言はれた。
そして、自分が喜ぶことをしていったはうがいいと言はれた。
また、この地球には「喜び」が足りないとも言ってゐた。
そして、各自は自らの内に「喜び」を持つやうにしていくと、それが外にも広がってゆき、
結果として、地球を喜びの星にできると。
松久正先生は、「お喜び様」と言はれてゐる。
Tya-Tyaさんも「オヨロコビ」と言ってゐる。
経済的に苦しいと、「喜び」で生きれない。苦悩の連続だ。支払ひをだうしようといふ思ひで四六時中いっぱいになる。
「喜び」は経済的な安定があってこそ成り立つ。
やりたいことがやれるなら、嬉しいし、「喜び」だらうけれど。
喜びが足りない。
7月に出版予定のノンデュアリティの本『悟りを生きる』(スコット・キロビー著)の訳語で難航してゐる。
「inseparability」「inseparable」(分けられない、わけられないもの)の訳語で、
「一体性」と訳すのか「非分離」と訳すのか「不可分」と訳すのか「分離できないもの」と訳すのか、
訳者、編集者、僕の間で統一見解に達してゐない(笑)。
英語から日本語への変換は、1対1ではできないものが多くて、一種の文化移植みたいなところがある。
マインド、ハートの訳語も、心が1対1で対応していない。
イギリス人やアメリカ人は、マインドというと頭(思考)を指すが、日本人が心というとどこを指すのか? 胸か。
頭から胸全般か、漠然としてゐる。頭を心と指す人は少ない。
ただ、禅で心といふ言葉を使うときは頭(思考)を指すことが多い。禅が中国から来ているからだらうか。
心臓も中国から来ているから、中国人か禅僧は何か使ひ方が違ふのかな。
『悟りを生きる』は、わりとわかりやすく読みやすい本なので、難しめの表現でないほうがいいのかもしれないけれど。
翻訳は文化移植であるとすると、逆に日本語を他国語に変換する(日本の文化を他国に伝へる)のも大変さうだ。
よくこれからは日本から文化(日本の精神文化)を世界に発信するのだ、といきまく人がゐるけれど、
日本語をうまく他国語に変換できるかだうかだらう。
また変換したい外国人がゐるかだうかだらう。
さうでなければ、単なる日本人の押し付けといふエゴだ。
神のご加護と風水と霊符のおかげで、当面の危機は乗り越えられさうになった。
ありがたい。
これからだうしてゆくかを考へていかないといけない・・・