菩薩行といふと何か自力的なイメージがある。
自分が人を救ふ、みたいな。
ただ、救ふべき「自分」といふのはゐない。
みんなが悟るまでこの世界に残る、といふのは英雄的ではあるが、
「誰が」残るのか。誰も残らない。
自分がゐない以上、自分は無力だ。
では、誰が救ふのか。
自分を超えた力が、救ふのか。
神が救ふのか、キリストが救ふのか、阿弥陀如来が救ふのか。
救ひとは何なのか。
救はれるとは何なのか。
菩薩行といふと何か自力的なイメージがある。
自分が人を救ふ、みたいな。
ただ、救ふべき「自分」といふのはゐない。
みんなが悟るまでこの世界に残る、といふのは英雄的ではあるが、
「誰が」残るのか。誰も残らない。
自分がゐない以上、自分は無力だ。
では、誰が救ふのか。
自分を超えた力が、救ふのか。
神が救ふのか、キリストが救ふのか、阿弥陀如来が救ふのか。
救ひとは何なのか。
救はれるとは何なのか。
今晩は。こちらはようやく台風から抜け出た様です。朝になって外を見るのがチト怖いです。救ひとは、生きる事だと思います。救はれるとは生きる事によっての様々な出会いであると思います。話変わって、本日小林正観先生(故人)が「358」という数字を大切にされているというのを知って早速自分あるパスワードを変更しちゃいました。どうなるか楽しみです。お釈迦様が35才8カ月で悟りを開かれたことによるラッキーナンバーだそうです。ご存知でしたか?失礼致しました。