「私はゐない」とは仏教の「無我」

のことを書かうと思ったが、今日(9日)はだうもツイてゐない日だった。
よくない知らせがたて続けにきた。
悪いことは重なるものだ。
しかし、良いことは重ならない。重ならないどころかめったに良いことは起きない(苦)。

減量に取り組みつつ、不摂生もしてゐるから、頭が朦朧として運を悪くしてゐるのか。

ノンデュアリティでよく言はれる「私はゐない」とは、仏教の「無我」と同じだ。
ノンデュアリティと仏教は同じことを言ってゐる。
ただ、仏教は宗教と化し、形骸化したり、葬式仏教になったりしてゐる。
仏教の本質的なところ、純粋なところが現代のノンデュアリティだ。
仏教の本質的なところと、葬式宗教とを切り離さないといけない。
葬式宗教は霊能者に任せればいい。霊的なことは霊能者に。
悟りのことは、ノンディアリティに。
仏壇に向かって、ノンデュアリティの意識になっても、死者は悟らない。
あるいは、仏壇に向かってお経を唱えるよりも、トニー・パーソンズの本を朗読したほうが、
死者も悟る(成仏する)のかな(笑)。

「私はゐない」「無我」「諸法実相」「あるがまま」「それしかない」

5 thoughts on “「私はゐない」とは仏教の「無我」”

  1. ナチュラルスピリットの出版物はいつも愉しく読んでおります。
    仏教といえばゾクチェンの本を発売されると聞いたのですが本当でしょうか?

    1. コメント、ありがとうございます。

      はい、これからゾクチェンの本をバンバン(笑)出していきたいと思ってゐます。
      候補はたくさんあるのですが、翻訳して出していくのは時間がちょっと掛かるかもしれません。
      最初は、箱寺さんの本から出していきます。
      よろしくお願いします。

      ゾクチェンでは、空(くう)の意識(悟りの意識)と虹の身体の関係性を知りたいです。

  2. 仏教の無我は、「諸法無我」から来てると思われますが、「諸法無我」は、「何事も固定的な実体は存在しない」意味だと思ってます。
    非二元の「私はいない」は、「私の本質は身体や精神でない」の意味合いが強く、仏教の無我論とは、ちょっとズレているかと思います。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です