客観芸術

グルジェフは、芸術を「主観芸術」と「客観芸術」にわけて説明してゐる。

主観的な芸術は、単なる機械的な再生品か、自然や他人の模倣か、幻想。
それらは、芸術家にしても鑑賞者にしてもどちらも主観的かつ偶発的なもの。
偶然の連想。

本当の芸術は、説明しえないもの、何かを内包している。
偶発的なものは何もない。数学だ。

グルジェフは上記のやうに説く。

数学といふと黄金比を連想する。
パルテノン神殿や、薬師寺の東塔は、黄金比で作られてゐるといふ。
以前、薬師寺の東塔の存在感に圧倒されたことがある。
グルジェフのいふ「説明しえない何かを内包している」。

音楽でも、バッハやベートーヴェンの音楽は何かの比率で構成されてゐるのだらうか。
数学者はバッハが好きと聞くが、何か共通するものがあるのか。数学的な構築があるのか。

時に、「客観芸術」と「覚醒芸術」との関わりを思ふことがある。
「覚醒芸術」とは「客観芸術」なのだらうか。
そもそも「覚醒芸術」とは何なのか。(「覚醒芸術」自体、私の造語ではあるが、笑)
覚醒をもたらす芸術。または、超越者・聖なるものが現れてゐるやうな芸術。

眠ってゐる人が、「覚醒芸術」に接すると目覚めるのだらうか。
すべての人が目覚めるわけではないだらうが、一部の人には亀裂をもたらし、
覚醒へと導くのだらうか。
薬師寺の東塔のやうに。

二元性の世界に、それを超えた何かを感じさせるもの。
黄金比建築は、なぜそれを可能にするのか。
数学とはそもそも何なのか。二元性を超えたイデアの世界のものなのか。

イエスは幸せであったか

イエスは幸せだったのかな。
福音書の中でイエスが楽しそうにしてゐるシーンはない。
人間的なものを超えてゐるので、人間的な喜びはないのかもしれない。
常に真我と一体で、その中で生きてゐた。

あとは、、、役割を自覚してゐて、それに身を捧げて、幸せであるときがなかったのか・・・

テレパシー?

テレパシーとは違ふのかもしれないが、自分の中で思ったことを相手が口にすることがよくある。
もしかしたら潜在意識(集合意識)の場があって、そこから浮き上がってくる思い(想念)を自分と相手が同時にキャッチして、どちらかが先に口を出すのかもしれない(相手が先に口を出すことが多いが)。

テレパシーの原理とは案外さういふものなのかもしれない。
違ふのかな。