辻はいつのまに、しんにょうに点二つ?

辻という漢字は、いつのまにか、しんにょうに点二つになってゐた。
『22を超えてゆけ』のときの辻麻里子さんの著者名は、しんにょうに点一つだった。
最近、改訂版や増刷等で、点二つになってゐることに気づいた。

ネットで調べてみると、2004年に策定された規格「JIS2004」でさうなったやうだ。
知らなかった(苦)。

他のしんにょうの付く漢字はだうなのだ。
「進む」は、点一つ。
違ひはなんなのだ!

しんにょうは、本来は点二つ。
正漢字では。
第二次大戦後、戦争に負けて、アメリカによって漢字も簡易化させられてしまった。

このブログでもできれば正漢字で書きたいが、変換するのが面倒で今の漢字にしてゐる。

あぁ、文化破壊。
東アジアで共通の漢字が使へない。
中共も、簡体字に変へてしまった。文化破壊。

二つの玄胎

結晶化と関連するが、仙道(神仙道も)には「玄胎」(陽神)という概念、技法がある。

それは、丹田で氣を練り、小周天で背骨を上昇させ、全面の正中線で下降することを繰り返すことによって、氣の球を練り強化し、「玄胎」(陽神)を作る。それを頭頂より出し(出神)、体外で自由に活動できるようにし、最終的には、意識を「玄胎」(陽神)に移し、肉体を氣化し、白日昇天をしていく。
体は氣の体になる。これはチベットのボン教や仏教の「虹の身体」に通じる。

もう1つの「玄胎」の概念、技法は、グルジェフのものだが、氣を練るのではなく、自己想起によって意識を覚醒し、覚的主体(不変の私)を結晶化するものだ。
これは意識の結晶化であり、非二元意識の結晶化だ。
この世の意識から半分脱出する。世間的に生きながら、半分は非二元の意識で生きてゐる。
グルジェフは、磁気化した不変の私がアストラル体を形成するといふ。
(アストラル体は最初からあるのではなく、作られていくものといふ)

「陽神」の「神」とは、仙道の概念では「意識」を指してゐる。神経の「神」だ。
「陽の意識」とは、「眠った意識(陰の意識=日常の思ひ浸った意識)」ではなく、「覚醒した意識」といふことができるのではないか。

とするなら、仙道の「玄胎」(陽神)といふ概念、技法は、グルジェフと同じものを指してゐるのかもしれない。
「覚醒の道」なのだ。
(グルジェフは氣を練らないが)

ゾクチェンも「覚醒の道」だが、その覚醒を通して結果として「虹の身体」(白日昇天)を作ってゆく。

結晶化

グルジェフは、不変の<私>になるには、結晶化が必要と説く。

普通?の人間はただ機会的な反応をするだけで不変の<私>はないといふ。
自己想起によって<私>が磁気化し結晶化して機会性を脱し不変の<私>になる、と。

自己想起とは、別名では一瞥だ。

一瞥ができていない人は、結晶化の一歩も踏めてゐない。
逆にいへば一瞥は、結晶化の一歩目でしかない。
結晶化の完成を10とすれば、一瞥は1でしかない。
結晶化の過程は、残り9待ってゐる。

結晶化は、また別名でいへば「悟りの定着」ともいへる。

今、スピリチュアル系の出版業界は混沌としてゐる。
かういふ状況のときこそ、非二元(エソテリック)の道をしっかり示すものを提供する必要があると思ふ。

けふの1曲、
Crystallize – Lindsey Stirling

グルジェフの曲

グルジェフの思想について書かれた『奇跡を求めて』(ウスペンスキー著)は、自分に最も影響を与えた本の1つだ。

エソテリックの神髄を語ってゐる。Kan.さんとも通じてゐる。

自己想起(自己知)は、ラマナ・マハルシにもクリシュナムルティにも通じ、グルジェフの思想は非二元とエソテリックが融合してゐる。

グルジェフは、客観芸術についても説いてゐた。
そして、グルジェフ自身、作曲もした。

グルジェフの曲を

何をどこまで

何をどこまですればいいのだらう?

覚醒(悟り、ノンデュアリティ)を限りなく追求すればいいのか、
エソテリックを追求すればいいのか、
スピリチュアルを人々に普及することをしていけばいいのか。

自己探求か、他者のためか。

菩薩行(大乗)は、みんなを救ってから最後に自分を救ふみたいなイメージがあったが、
自己=他者(包括者から見れば)であれば、みんなを救ふこと(みんなが救はれること)と
自己が救はれることは同じことなのだ。

すべてが一体として救はれる(救はれるとしたら)。

けふの1曲、
癒しの曲として、キース・ジャレットの「メロディ・アット・ナイト・ウィズ・ウイー」をYoutubeであればと思ったけれど、本人のがなかったやうので他の人が弾いてゐるもので。(CDで本人のを聴いてほしい)
My Wild Irish Rose ~The Melody at Night, with You~

おまけで、キース・ジャレット自身の、
Danny Boy

When You Wish Upon a Star

キース・ジャレットは、グルジェフの曲もCDとして残してゐる。

須賀敦子のYoutube

ちょっとした時間に須賀敦子の本を読むようにしてゐるが、読むたびにその才能、センスに感服する。

なかなかそんな時間もとれず、原稿を読んだり、他の本も読んだりする。

今回は、須賀敦子さんのYoutubeを紹介。
一つめは、
ETV特集 須賀敦子 霧のイタリア追想~自由と孤独を生きた作家~ 2009.10.18

大学の先生を務めてゐたときは、結構きびしい面もあったやうだ。

次は、
須賀敦子 静かなる魂の旅──永久保存ボックス/
最初の冒頭の言葉は、それだけでとまらないで続いてゐる(『ユルスナールの靴』では)。
今井信子のヴィオラも美しさを添えてゐる。

須賀敦子とは関係ないが、けふの1曲
カッチーニ アヴェ・マリア 宮田大 木洩れ日

人は生きてゐる。

パッとしない

最近は、パッとするやうな本も出てゐないやうに見える(他社も含めて)。
弊社の最近の本も中身は面白いのだが、売れ行きからするとパッとしてゐない(笑)。
まう流行り物はなくなったのかな。

各自が真実を追究していけばいい。
さう思ふが、真実の追究なんてあまりされてゐないのかな。

パッとしないから気分もさがる(笑)。
(お盆休み疲れで精神的に下がってゐるのもあるが)

さういへば、今まで選挙で投票した人が当選したことがほとんどない(爆)。
政策を見て投票してゐるのだが、多くの人はその政策に賛同しないのかな。

自分の選ぶものなんて多くの人の賛同を得るものではないかもしれない。
本もさうだ。
マニアックな少数派向けのものばかり。
だからパッとしない(笑)。

意識の目覚め、覚醒も少数派か・・・

自分の判断力なんて外れっぱなしだし。

けふの1曲、ヴィオラの名手、プリムローズのLondonderry Air
これも再生回数が少ない。
(今まで紹介してきたものは再生回数が多かったのだが。CDで聴いて良かったのでYoutubeでも探してみた)

神様へのお願い or 使役

神様(人格をもった高次に進化した存在)にお願いするのは、神様を使う(使役する)ことになるのかな。

多くの場合、神様にお願い事をするとき、神様を褒め称へ、高めに高めて、自らを低くへりくだり、無力なものとし、神様の慈悲にお願ひするしかありません、と祭文を述べる形で行なはれる(物部のいざなぎ流など)。

こういふお願い事は、神様を使ふことになるのかな、それとも使ふことにならないのか。
これは神様の気持ち一つに掛かっているので、こちらの思ふやうにはならない。神様の思ひ次第だ。

これは会社や組織で上司にお願いするときにも通じる(笑)。

お稲荷さんは、お願いすると見返りを要求するといふ。
ほかの眷属の存在たちは、見返りを要求するのかな。
龍神は?
龍神もひたすら褒め称へ、伏してお願いする形か・・・

「祓へ給へ、清め給へ」といふのもお願い事か。
自分のために、自分が清くなるために神様にお願いしてゐる。

自分がなくなれば、清まる主体がいなくなる。願ふ必要がなくなる。

自己なき自己が神様(神棚や神社)に向かうとき、だうなるか?
自己と神様とが根底において一つであることを感じるだけ?
お願ひもないが、感謝ということもない。通じ合ひだけ? 通じ合ふといふの二元的な表現だが。

けふの1曲(NTR Podium: Lavinia Meijer speelt Philip Glass)

全然関係ないけれど、今、若い女の人たちに手持ちの扇風機が流行ってゐるやうだ。よく見かける。
ヒット商品(笑)。
タピオカの次はこれか。

無駄な出費、余計な出費

久しぶりの投稿(笑)

8月になって、無駄な出費、余計な出費がたて続いてゐる。6件は生じてゐる。
起ることはたて続けに起る。

6月はドタキャンがたて続けに4回起こった。

無駄な出費はヤバい。
そんなことが続くと経営に響いてくる。

頭がおかしくなってゐる。判断力がにぶってゐる。

引き締めないと。