祈りも、不安やつらさの反対表現

祈るのは、不安があり、つらいからだ。
不安を解消したいために、神様に祈る。
安心立命の境地になれば、祈る必要はなくなるのかな。
悟れば、祈ることもしなくなるのか。

イエスは、しょっちゅう祈っていたような記述が福音書にはあるが、
イエスは、不安だったのか。安心立命、悟りの境地にはなかったのか。

イエスは、絶対的な権威のような感じで言葉を発してゐたが、
自分の言動に不安はなかったのか。

僕は自分の言動に自信がない。いつも不安にさいなまれてゐる。
祈ってばかりだ。それも何の期待もなく。何も(といふことはないか)みたされないのだ。

「ありがたうございます」は、「つらさ」の反対表現

「ありがたうございます」といふのはいいと言はれてゐる。(ありがたうおじさんもゐたな)
何かあると「ありがたうございます」。
転んでも「ありがたうございます」。
いやなことがあっても「ありがたうございます」。
「ありがたうございます」の陰には、「つらさ」がある。
表面意識は「ありがたうございます」、下の意識は、「つらい、つらい」。

もう、「つらさ」の連続だ(苦笑)。「ありがたうございます」の連続か。。。

覚醒すると個人はゐなくなる。

今度出すリック・リンチツの『あなたも私もいない』(No You and No Me)は、最初から最後まで「個人がいない」といふことを語ってゐて痛快だ。とても面白い。発売を楽しみにしてゐて。発売を楽しむ「個人」もゐないのだが。楽しみそのものはある。

上記の本とは直接関係ないが、世の中には幻想で生きてゐる人が二つに分類される。
一つは、「何でもできる。何でも可能である」といふ幻想で生きてゐる人。
引き寄せ系の人がはまる幻想だ。
現実には、何でも可能ではない。100mを3秒で走れない。
二つめは、何でも可能ではないと思ってゐるが、想いの世界に浸って生きてゐる人。
大部分の人は、この分類に入る。常に何かを想って、その想ひに浸ってゐる。
リアリティを生きてゐない。
そして、それらに属せず、幻想で生きてゐない人が覚醒して生きてゐる人だ。
覚醒して生きてゐる人は、「個人」で生きてゐない。そこに「個人」はゐない。
「それ」が「それ」として生きてゐる。

宗教戦争もエゴの戦ひ

イスラム国の非道な行なひに、ムカムカする。
イスラム教をたてに、人に非道な行ひをすることはゆるされないと思ふ。
それは単なる自己の信念を通すためのエゴにすぎない。
単なる観念論の亡者だ。
「覚醒」とは真反対だ。覚醒は、観念・信念から自由になることだから。
宗教も単なる観念でしかない。
観念を押し通すと、エゴイズムになる。

不景気の大きな原因のひとつ、消費税

クリスマス商戦も、そんなに売れなかったといふ話を聞いた。
去年・一昨年くらいから、弊社に限らず、本の売れ行きが落ち込みやワークショップの申込み人数も減ってきた。
消費税が8%になってから、さらに不景気になった。
消費税は、消費に税を掛けるので、ものが売れなくなるための税制だ。
消費税を考えた公務員(官僚)は、痛くも痒くもないのだらうが、商売をしてゐる身にとっては死活問題だ(苦)。

1989年(平成元年)に消費税3%を導入してから、日本の景気は悪くなった。バブルが終わった。
「失われた20年」などとも呼ばれ、1997年(平成9年)に5%になり、2014年(平成26年)に8%になり、さらに景気が悪化した。
今度、消費税が10%になったら、もっと景気が悪化するだらう。

消費税を軽くし、最終的には、1989年以前のように廃止してほしい。

税収が減った分、国家予算を減らし、小さな政府にすればいい。
予算の大部分を占める医療費は大幅に減らし、健康増進のためにヒーリングその他、スピリチュアル系の療法を積極的に取り入れれば予算が少なくて済む。

民間の活力アップをはかり、政府は国民の安全と土木事業等、必要最低限でいい。

個人の無さとプレゼンス

明けましておめでたうございます。

なぜ、明けるとめでたいのかな?

今の西洋暦の1月1日は、恣意的に作った日なので、季節のリズムや肉体的なリズムにもあってゐないのでは?
旧暦の1月1日も毎年違ってゐて、だうなのかなとも思ふ。
立春の2月4日を正月にしたほうがいいやうな。
立春の2月4日を1月1日にすると暦はだうなるのかな。
24節気暦になるのかな。
あるひは、古代ローマ人よろしく3月から新年にするか。

それは今のところさておき、
覚醒(ノンデュアリティ)の2大テーマ、それは「個人がなくなること」と「プレゼンス(臨在)」を感じること。
同じものの側面を表してゐるが、どちらを重点的に説くかは、ノンデュアリティ・ティーチャーの性格や体験による。
トニー・パーソンズ系だと「個人の無さ」がメインになるし、レナード・ジェイコブソンやルパート・スイパイラだと「プレゼンス(臨在・現存)」がメインになる。
本質的には同じなのだが、「個人の無さ」(無我)は禅的であり仏教的でもある。
「プレゼンス(臨在)」は、リアリティの感覚であり、他と共にあるといふ感覚とともに、神(超越者)がそこにあるといふ感覚だ。「愛は神であり、神は愛である」といふことを認識する世界。クリスト教神秘主義やイスラム教(スーフィ)的な世界。

プレゼンス(臨在)の感覚は重要だが、「個人の無さ」を説いてゐない人は本物ではないと思ふ。
個人は無いが、「I AM」(われ在り)は、そこにある。個人でない認識(知)がそこにある。

第九=浄化(カタルシス)の儀式

ベートーヴェンの交響曲第9番合唱付は、年末に日本中で演奏される。

第九(だいく)を聴くと、聴いてゐると、浄化(カタルシス)の儀式に立ち会ってゐるやうな感覚になる。
今まで溜まってゐたものが、浄められていく感じがする。カタルシスが起こる。

日本人は、第九で一年間溜めてきたものを浄化するのかもしれない。

浄められるだけでなく、高められる。何か崇高なものへとつながる。
さうなんだ、かうでなければならないんだ、人間は!といふ思ひにかられる。

ベートーヴェンは、ほとんど耳が聞こえない状態でこの曲を作った。
かなり感情的な錯綜があったと思ふが、「苦悩から歓喜へ」といふテーマが、
見事に表現されてゐる。静かな想ひ(諦観の念)とたぎる感情の噴出と。

これを客観芸術といっていいのかだうかわからないが、数学的な正確さで、
見事に浄化を成し遂げてゐるやうに思ふ。

クリスマスっぽくない

なにか今年は、自分自身の感じも、他の人の感想もクリスマスっぽくない感じだ。

なぜなのかな。

何かが変はったやうな。

日本の神様ブームで、キリスト教的な要素は特にいらなくなったからか。

経済的な事情か、社会的な事情か。

大雑把にいへば、人々の意識が変はったのかもしれない。