最近の人は

最近の人は、引継ぎもしないで辞めていく人が多い。
だうしてなのだらう?
会社がだうなってもいいといふことなんだらうな。
こちらにも責任があるのだらうけれど。
(こちらもできることはしてゐるつもりなのだが)

あと、納期が遅い人や仕事が遅い人の場合、その分、機会損失にあふので
かなりの痛手を会社は負ふ。
それで会社が危機的状況になる。
去年から今年にかけてその傾向にある(いつもなのだらうが)。

はっぱをかける、尻をたたけなければ社長の仕事ではないのかもしれない。
その人たちが仕事が遅れて会社がつぶれてしまったら給料やギャラを払へないのだから、
自分たちが仕事しないでこちらのせいにされても困る。
その分、社長は厳しくならなければならない。
ふてくさられてもめげてはいけない。

いいことがほとんどない中で仕事をするのはきつい。

耐へることしかない。
待つしかない。

何のために?
食べるため?
あるひは、何かすばらしいもの(こと)の実現のため?

災ひの連続

まうこれでもかといふくらい災ひ(苦難)の連続だ。
なんでかうなるのだらう。
あきれてしまふ。

占ひ的には運気の低迷が2020年まで続くといふ(苦笑)。
しんどすぎる。

もつのかな。
もたなければそれで終はりだが(笑)。

これも非二元の光か。

苦しみも空性

覚醒という観点から見れば、苦しみも空である。覚的世界の一現象にすぎない。

悟った人も悟ってゐない人も骨折すれば痛い。苦痛だ。
悟った人も悟ってゐない人もお金がなくて食べ物が買えなければ空腹で苦しむ。
悟った人も悟ってゐない人も仕事がなければ生きていけない。だうしたものかと考慮する。
グルジェフに言はせれば、悟った人は外的考慮をし、悟ってない人は内的考慮をする。
外的考慮は客観的に考えることであり、内的考慮は煩悶だ。

煩悶も空ではある。

耐えることもしんどい。耐えることもしんどさも空だ。

チベットのゾクチェンは、非二元の教へであり実践であり悟り(覚醒)そのものを指してゐる。
そして心の本性にとどまり続けること実践する。
非二元は空であり輝きであるといふ。

ゾクチェンと禅はほぼ似てゐるが、禅は「輝き」のことをあまり言はない。
イスラム神秘主義(スーフィ)やクリスト教神秘主義のほうが「輝き」を多く言ふ。
「照明体験」だ。
イルミネーションであり、エンライトメント(光明)。

この輝きは、5大元素の輝きであり、心の本性(覚醒それ自体)にとどまり続けると
5大元素が整い、虹の身体へと変成していく。その技法?がトゥーゲルだ。

苦しみの中でも心の本性にとどまり続けなけば。。。

またグルジェフの話に戻るが、イエスとノーの葛藤によって〈私〉の結晶化が起こると言ってゐた。
〈私〉とはI AMであり覚的主体だ。

あっち行ったり、こっち行ったりの文章になってしまった(笑)。いつもだが。

お金のない社会

お金のない社会であればどんなにいいことか。

会社をやってゐるとお金の交渉がある。
うんざり。
そんなことから解放されたい。
わずらわしくてしょうがない。

お金の交渉以外にも資金繰りが大変で、ストレスと気持ちの擦り切れでだうにかしてほしいといふ感じだ。

なんでこんな社会になってしまったのだらう。

まだ修行僧のはうが手ぬるい感じだ。

さうでもないか、自分のはうがずっと甘い。だらしなさすぎる。

(お金のない奉仕だけの社会であれば)
(さうなっても奉仕できない自分に幻滅するのかな)

“I Amness”の訳語

来月出版予定のニサルガダッタの最晩年の本『意識に先立って』(仮題)の中に出てくる”I Amness”の訳語が難しい。

訳者、編集者は「私という存在性」と訳してゐる。
原語が”I Amness”で、”I AM”(われ在り、私は在る)にnessを付けたもの。
“One”と”Oneness”、kindとkindnessみたいな関係か。
「一(一なるもの)」と「一体性」

「私という存在性」だと原語の”I AM”のニュアンスが生かせない。

「私は在る」と「私は在る」性
「私は在る」性だと変なので、「私は在るという性質」
または「私は在るというもの」「私は在るという存在」
「私は在るという存在性」

難しい。

何でもメールで済ませてしまふ

電話が超苦手で、人前で話すのも苦手で、それでメールで済ませてしまふことになる。

人事も契約(解消)のこともメールで通知する。

告げられた人は、メールで簡単に済ますのか、みたいな反応をする。複数の人からそんな反応があった。

でもメールで通知することしかできない(苦)。

スピリチュアルとは何ですか?

今日のスタピの編集会議で訊かれた。
「スピリチュアルとは何ですか?」

僕はかう答へた。(下記の説明は補足して書いてゐる、笑)

スピリチュアルには二つの意味合いがある。

一つは、意識が目覚めること。すなはち「悟り」「覚醒」を得ること。
想ひに自己同一化してゐる状態(エゴの状態)から目覚め、意識が世界へと広がり、客観と主観とを同時に認識できるやうになり、世界を超えた超越者(創造者・根底)を認識し、実はそれが本来の自分だったと気づき、その意識で生きること。

二つめは、この世界を超えた次元があること、霊的な次元があることを認識して生きること。
これには、あの世、生まれ変わり、エネルギー・ヒーリング、チャネリング、宇宙的文明、さらには浅くライトスピリチュアルまで含まれる。日本の神様もこちら。

一つめのほうは、エゴから抜け出す道であるが、二つめのほうは、エゴが温存される。引き寄せ等の願望実現の手段として利用されたりする。

『スターピープル』では両方を紹介したいと思ってはゐる。一つめを中心に、二つめの広がりも組み入れて。

書籍についても中心をつらぬいた本をだしていきたい。

ぶれまくってゐる自分ではあるが。自分は抜け落ちるべく。

ナチュラルでもスピリチュアルでもない(笑)

先日、オイルマッサージをしながら霊的リーディングする人のセッションを受けた。
その人には会社名の「ナチュラルスピリット」ということを告げてゐなかったのだが、
セッション中、「ナチュラルでもスピリチュアルでもないな」と言はれた(爆)。

確かにさうだ。僕はナチュラルでもスピリチュアルでもない。
不自然な出鱈目な生き方をしてゐるし、スピリチュアルなことは何もしてゐない。
本はスピリチュアルな本を出しているが、出してゐる本人はスピリチュアルでない。
偽善者だ。

その霊的リーディングをする人からは呼吸法なり瞑想なりスピリチュアルな何かを一つでも実践したはうがいいとアドヴァイスをいただいた。

怒りを溜め、酒に走り、肝臓に負担がいってゐるので、このままだと肝硬変になると言はれた。
酒を控えるやうにと(笑)。
まさにそのとおりだ。それを言はれてから、ちょっと酒を控えるやうになった。
(控える日と暴飲する日とがあり極端だが)

怒りは、物事がうまくいかないところからくる。なんなんだよう。ちくしょう。といふ思いの連続。
待ちに待ち、やってほしいことをやってくれず、成果が出ず、言ひたい放題言はれ、耐へる日々。
怒りの解消法を学ばなくてならない(笑)。ものに当たるのではなくて。

霊的リーディングをする人は、ときに喧嘩もあってもいいと言はれてゐたが・・・

神は充満してゐる

「おぉ。神さまお助けください」
この言葉はマインド(心)の言葉で、今まで聞き入られたことはない(個人的に)。
言葉だけでは、神(根源・超越者)とつながらない。

「神さまお助けください」
いつも発してゐるが、それでだうなるわけでもない。
なぐさみにはなるのかもしれないが。
苦しみの連続なので、その言葉を発してしまふ。

「神さまお助けください」と言っても
助かってゐないの連続だが、でも助かってゐるのかな。

「神さまお助けください」といふ言葉よりも実際の感覚として
神とつながってゐる感覚があるほうが「救ひ」があり、それこそが「神の助け」だ。
すぐに叶う「神の助け」。心が救はれてゐる。

覚醒すると神が目の前に充満してゐる認識をもつ。
神の臨在(プレゼンス)をありありと感じる。
スーフィ達は、「神の照明体験」と言ってゐる。

「神の助け」とは具体的に何かを助けてくれるのではなく、
神の臨在を体験し、神の充満さの中にあることによって直接救ふ(救はれる)ことにある。
この現実世界がどちらに転ぼおうとそれに関わらず救ひがある。

五大元素と虹の身体

今日のチベット人の先生のドゥルクモさんの話では、虹の身体の「虹」とは五大元素(空=青、風=緑、火=赤、水=白、地=黄)の色を表してゐるといふ。
虹の身体とは、身体が五大元素まで還元されたといふことだ。この世界(五大元素の世界)を超越し、輪廻の世界から解脱したことになる。
人間は、貪・瞋(怒り)・癡(愚か)の三毒があることによって輪廻の世界を生きてゐると仏教ではいはれてゐるが、貪・瞋・癡(どん・しん・ち)は、五大元素の偏りによって生じるといふ。その貪・瞋・癡を取り除いてゆくのがアティ・ヨーガ(ゾクチェン)らしい。
如何に五大元素に解体してゆくのか、自由に操ることができるのか・・・
Kan.さんはその境地にゐるのだらうな。

ゾクチェンは、非二元の覚醒とも関係してゐるが、非二元の覚醒と五大元素への還元とどうつながってゆくのか。
サン・ジェルマンの『マジック・プレゼンス』では、「アイ・アム・プレゼンス(われ臨在す)」の認識がアセンション(虹の身体の獲得)の鍵であるといはれてゐる。
これらはだう結びつくのか?