50代は精神的にもろい?

たて続けに50代の経理の人が3人も辞めた。大変な状況だといふことですぐに辞めていった。
50代の人間は精神的にもろくなるのかな。
うちが大変な状況といふのもあるが、それにしても引き継ぎもせずに辞めていくとは。

去年の暮くらいから人々の状況が変わってきたやうに感じる。
いったい何が起きてゐるのだらう?
何かが変わった。

いろいろな道

自分(笑。自分はゐない)は、欲が深く、いろいろな道を知りたいし紹介したいと思ってゐる。

非二元(ノンデュアリティ)の最前線も紹介したいし、
インドのコアな非二元(悟り)も紹介したいし、
チベットのゾクチェンの非二元の悟りといふ認識論と虹の身体(アセンション)といふ存在様式の変換といふ存在論の
関わりについても紹介したいし、
神道、古神道についてもいろいろ紹介したいし、
西洋の伝統的な占星術や最先端の占星術についても紹介したいし、
東洋の陰陽五行の在り方、生き方、占術・風水についても紹介したし、
道教(仙道)の白日昇天(アセンション)についても究めたいし紹介したい。

西洋の多次元的な考え方と非二元との絡みも知りたいし紹介したい。

宇宙人(他の惑星文明)についても知りたいし紹介したい。

おお、何と欲深かなことか。

自分自分自分

リチャ-ド・シルベスターさんのワークショップの影響もあって、自己(自分)はゐない、ワンネスのみがある。
無条件の愛で満ちてゐるのみがある。といふ言葉を聞いて、自分自分自分といふやうな本の取材依頼等が
あっても、だうかなと思ってしまふ。協力してあげたい気持ちはあるが載せる意味があるのかだうか。

「自分を大切にする」といふのはいいのかもしれないが、自分(と思はれるもの)が抑圧されたり、
認められなかったりしたら、回復する意味で必要なのかもしれないが、
これだけ非二元が広まって、「自分はゐない」といふことが言はれるやうになって、それでも
自分自分自分といふのは時代遅れのやうな氣がする。

2段階(自己否定→自己肯定→自己不在・ワンネス)があるのかもしれないが。

今は時代錯誤も混在する時代か。

一瞥と解放

リチャード・シルベスターさんの見解だと。一瞥(最初の目覚め・覚醒)は瞬時のもので、「空」(くう)の体験だといふ。

一瞥後には、また「自己」が戻ってくるといふ。

でも一瞥体験が忘れられず、絶望の状態がしばらく続くと。

そして、あるとき「空」と同時に「満たされてゐる何か」を感じるやうになるといふ。
「満たされてゐる何か」とは、別の表現では「無条件の愛」だといふ。

「空」と同時に「満たされてゐる何か」(無条件の愛)を感じるやうになると「解放」が起り、
それ以降「自己」は戻らないといふ。

無我のまま事象は起るままに流れていく。

「無条件の愛」のまま生きていけば、自己が脱落したままになり、それ以降、覚醒のままに生きていくことになる。

リチャード・シルベスターさんはすごい

今日(正確には昨日)、リチャード・シルベスターさんのイブニングの集ひがあった。

リチャード・シルベスターさんは弊社から『早く死ねたらいいね!』といふ本を出させていただいている
ノンデュアリティの先生だ。

イブニングでのお話が、わかりやすくて、非二元の本質をうまく表現して伝へてくれていた。
さすが元大学の先生をしている感じが伝わってきた。

全然おごらず、坦々としてゐながら、質疑応答でも的確に質問者に伝へてゐた。

解放が起る前に、30年も瞑想したりスピリチュアルな探求をされてきたようだが、
“スピリチュアル”についてもノンデュアリティの立場から要所を指摘してゐた。
(30年の瞑想も解放とは何の関係もないとのことだ。今は瞑想してゐないとのこと)

ロンドンは、ノンデュアリティ(非二元)の先生がいっぱいいて、その分野では世界一らしい。
(ロンドンは何でも世界一が好きらしいが)
ロンドンがうらやましい(笑)。
東京も非二元の先生がいっぱいいて、たくさん集ひ(サットサン)が開催されたらいい。
今、日本では大阪が一番多いのかな? 個人的な印象だが。
大阪在住のやまがみてるおさんのお話だと、大阪はさうでもないと言はれてゐたが。

水平の道と垂直の道

先日、Kan.さんにお会いしたときに、水平の道と垂直の道のお話をされてゐた。「道」と言ってゐたか「方向」と言ってゐたかうろおぼへだが。

以下は、Kan.さんの言葉ではなく、そこから自分なりに敷衍しての言。

この世界のすべてのものは(あの世、神々も含め)、すべて水平の道だ。
引き寄せや願望実現系も、すべて水平の道。
楽しみも、すべて水平の道。

では、垂直の道とは何か。
イエスが神を思って(思ふといふ言葉は適切ではない)、祈りの中で(祈りといふ言葉も適切ではない)
行動しているさまかな。
あるひは、ハムレットが、常に何ものかを意識し、「生きるべきか、死ぬべきか」と煩悶しているさまか。
垂直の道とは、聖なるものを意識した道だ。
何かに支えられてゐるのか、とりつかれてゐるのか(憑依ではない、笑)、ダイハードな道。

さういへば、福田恆存もそんなことを言っていたっけ(うろおぼへ)。

グルジェフの〈不死の私〉も、垂直の道に人が向かうときに生じていくのかもしれない。
水平の道では、外部の影響を受けて、行きあたりばったりの〈私〉しか生じない。