最近?、一部の人を除いて能力が低下してゐるのを感じる(自分も含めて)。
なぜ、こんなにレベルが下がったのだらう?
(もともとそんなレベルだったのか?)
スマホのせい? おそらく。
単純に見ることができなくなっているばかりでなく、
日本語能力も落ちてゐる。
日本語能力を扱ふ会社で、これは困る。
美しい、通る文章を提供しなくては。
切れるような日本語を読んでみたい。
最近?、一部の人を除いて能力が低下してゐるのを感じる(自分も含めて)。
なぜ、こんなにレベルが下がったのだらう?
(もともとそんなレベルだったのか?)
スマホのせい? おそらく。
単純に見ることができなくなっているばかりでなく、
日本語能力も落ちてゐる。
日本語能力を扱ふ会社で、これは困る。
美しい、通る文章を提供しなくては。
切れるような日本語を読んでみたい。
覚醒系(ノンデュアリティ系)では、「いまここ」が大切といふ。
マインドは、未来か過去のどこかを思ってゐて「いまここ」にゐないから、覚醒すると「いまここ」だけになる。
ただ、「いまここ」だけだと平面だ。ただの現実世界だけだ。
「いまここが天国である」と認識するとき(覚醒するとき)、縦軸として「天国」があらはになる。
「いまここ」という平面と「天国」といふ垂直が交はる。
「いまここ」が逆境といふ状況だらうと「天国」が顕現してゐる。
地獄で天国。
「煩悩即菩提」といふのも、煩悩と菩提が同じものだといふ見方もできるけれど、
横軸と縦軸といふ見方もできる。
煩悩の中にあっても、菩提が顕現してゐる。
今度出す本『何が、起きても、それを、愛する』(マット・カーン著、仮題)に、ペースを落とすことが書かれてゐる。ハートで生きるためにはペースを落とすことが必要だと。ゆったりすることが必要だと。
アラン・コーエンさんも同じようなことを言ってゐる。
今まで、野望を持ち、欲のままにガムシャラに、渇かつとして生きてきた。ああしたい、かうしたいと闘争してきた。そしてストレスを抱へ、酒に溺れ、暴食をし、他のことにも溺れ、頭も朦朧として、いかれた状態だった。
出したいと思ってゐた本(分野)もだいたい出し終わり(まだあるといへばあるが)希望(夢)を失ひ、毎日の多量の事務的な対応に追われ、気力も体力も落ち、精神と神経が擦り減って、不適応状態になってゐた(る)。
今は、ペースを落とす必要がある。
多量の事務的な対応もあまりしたくないし、しないようにしよう。
本も出し過ぎないやうにしよう。
まう、これといった欲もないし。
ゆったりと生きていかうと思ふ。
この世界は幻想であり、諸行無常ではあるが、キリストのビジョンで見ると永遠の相で見える。神の世界が見える。神が常に在る、神とともに在る、神の中に在る。
そこに救ひがあるのだらう。
天国は死んでから行くものではなく、生きてゐながら天国にゐることができる。キリストのビジョンで生きるならば。
使徒たちは、さうやって生きてゐたのだ。彼らには光が灯ってゐた。キリストの光が。
今日お会いしたお医者さんによると、気力と肝臓は関係してゐるといふ。
酒の飲みすぎで、肝臓が弱って、それで気力も出なくなったのかな。
肝臓を大事にしないといけない・・・
と言ひつつ、酒を飲みながら書いてゐる(苦)。
『奇跡のコース』では、この世界は神が創ってゐない不完全なものといふ。
いつまでも不完全であるが故に、この世界には希望がない。
ラマナ・マハルシも「この世界のことは、この世界に任せない」と言った。
この世界はだうしやうもない。この世界には希望がない。
では、この世界でないところに希望はあるのだらうか?
神の世界に希望はあるのだらうか?
神の世界の希望って何?
神の世界にあれば何の希望もないのではないか。
希望をもつ必要がない。
パウロは、
「信仰と希望と愛、この三つはいつまでも残る。その中で最も大いなるものは愛である。」
と言った。
パウロの言った希望とは?
今、自分にはほとんど希望がない。
あっても希望なき希望。
希望と言ふとき、何か心が開くイメージがある。
なぜ開くのか?
望みが叶う可能性があるから?
死が待ってゐるこの世界で望みが実現しても、やがては消えてゆく。どこかで望みが死によって断ち切られる。
何の結論も出ない。
心理学はうだうだしてゐて苦手である。自己愛の世界。
また心理学は平面の世界を扱ってゐる。縦軸がない。神や信仰や悲劇性がない。
ライトスピも同じやうなもの。ライトなだけあって深みがない。
名人や巨匠や職人は、何年も修行し、自ら何かを会得し、磨き、そぎ落とし、そして人を感動させる何かを体得する。神が宿る? 神聖な何かが顕現する?
ライトスピにはさういふものがない。
手短に何かが得られる、といふタイトルばかり。
それで得られるものとは何なのか。ぴーひゃら。
今の自分はライトスピでもディープスピでもない。
何かほとんど諦めてしまった。何も達成しようとも思はない。達成しようとしないから名人にも巨匠にも達人にもなれない。かといって手軽に願望実現なんてとも思はない。何の意味もない。
もう年で死ぬだけといふ感じだ。死ぬ人間に願望なんて意味がない。
やれることはやったし、あとは惰性なのか。
体力も気力も落ちてゐる。
あとは後進に任せるだけ。
遊子、ひとりたたずむばかりなり。
スピ系は何でも対象化してしまふ。
高次の存在は対象として見ることはできるが、神(といふ表現は適切ではないかもしれない。包越者)は
対象化しえない。偶像は作れない。
主観と対象を包越する何か。
包越者に、意識を向けること。
縦(垂直)といふもこれを指すのか。
対象化できるものは平面だ。水平の世界。
ハムレットは、包越者に意識を向けながら生きた(劇の中で)。
「生か死か、それが問題だ」といふとき、そこには包越者への意識がある。
包越者への問ひかけがある。
イエスは、その典型だ、常に包越者に意識が向いてゐる。
「エロイ・エロイ・ラマ・サバクタニ」
この20年で日本のスピリチュアルもだいぶ進化、成熟、一般化、浸透をしてきたな。
情報が増えたおかげであり、いろいろな人が実践してきたおかげだ。
次の元号が「令和」になった。
いろいろな意見があるようだ。命令の令で統制や軍国主義や戦争のイメージがあるとか、文字のエネルギー的にもあまりよくないとか。和を令せらても、という感じはあるのかな。まあ、どんな時代になっていくのか・・・
同じ音を使ふのであれば「霊和」がよかったかな。霊(スピリット)が調和していく感じで。
それはともかくとして、
Kan.さんも言はれてゐるやうに、スピリチュアルの道においては平面(平行)の関係だけでなく、垂直のものがだうしても必要だ。垂直のないスピリチュアルは、ただの遊びといふか何の意味もない。本においても平面的な本ではなく、垂直のものがある本を出していきたい。
垂直とは霊感だったり、聖なるものを感じこと。相手と面していながらそこに聖なるものが介する。
人への愛が同時に神の臨在を表してゐるやうに。