氣が狂ふとき、誰が狂ってゐるのか?
氣が狂ひさうと思ふとき、誰がさう思ふのか。
苦悩するとき、苦悩してゐる主体は誰か。
想念だけで、思ひの世界だけで苦悩してゐる。
それが身体に負荷(ストレス)をかけ、筋肉に抑圧したエネルギーが溜まる。
想念の主がいなくなれば、苦悩することも気が狂ふこともない。
ストレスもなく、抑圧したエネルギーが筋肉に溜まることもない。
身体は、リラックス状態だ。
氣が狂ふとき、誰が狂ってゐるのか?
氣が狂ひさうと思ふとき、誰がさう思ふのか。
苦悩するとき、苦悩してゐる主体は誰か。
想念だけで、思ひの世界だけで苦悩してゐる。
それが身体に負荷(ストレス)をかけ、筋肉に抑圧したエネルギーが溜まる。
想念の主がいなくなれば、苦悩することも気が狂ふこともない。
ストレスもなく、抑圧したエネルギーが筋肉に溜まることもない。
身体は、リラックス状態だ。
つづけざまに書く。
ブログ的には一日一つがいいらしいが、氣にしない。
先日、算命学(四柱推命のうちの年月日で占うもの)を勉強してゐる人から見てもらったら、文筆の星があると言はれた。それも天中殺が入ってゐるので、変な文筆で成功すると(笑)。
スタピで読むとき「発行人愚言録」から先に読む人がゐるらしい。(何人からか聞いた。笑)
変な文筆でやるしかないか(笑)。
このやうな仕事をしてゐると氣が狂ふ(笑)。
まともな人は持たないやうな氣がする。
僕はまともな人間でないから持ってゐる氣がする(苦)。
なんかまう、の世界。
僕の実力がないから。
禅と(チベットの)ゾクチェンは、覚醒・明智(リクパ)で生きるといふ点では共通してゐる。悟りに関しても同じだ。
だが、禅師が死ぬ時は普通に死ぬだけだが、ゾクチェンのマスターは死ぬ時に「虹の体」となってエネルギー体となって死んでいく。
この違ひは何か?
うまくいかない!
ついに家の電話機も壊れた。
家のパソコンも壊れたが(会社のも含めて2台め)、入れ替えと新規インストールで計4台のパソコンにシステムを入れないといけない(苦)。
今度出す予定の出版物も何冊もうまくゆかない。
あげくの果ては、会社のマンションの玄関前のたばこの吸殻を拾って、ポストのあるところに設置されてゐたごみ箱に捨てたら、管理人がたばこの吸殻がごみ箱にあるのを見て(危険とみなして)ごみ箱を撤去してしまった。良いことをしたつもりがあだとなった(苦)。
既刊の売れ行きもよくない。
7月は惨憺たる状況だ。
ネガティブ波動にさらされてゐるのか……
嗚呼。
ゴータマ・シッダルタは、覚醒し悟りを得てブッダとなった。
悟った人は、ブッダの前にもゐたかもしれないし、ブッダが悟ったあとは悟った人が輩出し、現代も悟ってゐる人は多い。
みんなブッダと同じ悟りだ。上下はない。
ブッダは覚醒を伝えたにすぎない。
それが仏教といふ宗教になってしまった。
ブッダが神に崇めれてしまった。
ただ、覚醒を伝えただけなのに。
今では宗教にする必要はないし、ブッダは覚醒した人の一人でしかない。
仏教は宗教である必要はないし、宗教をやめる必要がある。覚醒ということにおいて。
先祖供養といふ仏教は、別なのであらうが。それはそれで必要だと思ふが、それはブッダの教え(覚醒)とは別だ。
今の「覚醒ブックス」の本がブッダの教えだ。
昨日、松久正先生の『ワクワクからぷあぷあへ』をライトワーカーブランドから発売した。
おかげさまで好評&好調のやうだ。
この本の中で、「ワクワク」とは地球的なもので、対象を必要とする(91ページあたり)とあり、これは二元性の生き方の一つなのかなと思った。
それに対して「ぷあぷあ」とは、宇宙的なもので、対象を必要とせず、今そこに過去未来も影響なく楽に在ることを指すやうだ。これは、ノンデュアリティ(非二元)の在り方・生き方に通じるものがある。
松久正先生は、「ぷあぷあ」を今年の流行語大賞のノミネートにしたいと熱い思ひでゐる。
情熱的に「ぷあぷあ」を世に広めたいと思ってゐる。
地球人進化クリエーター。
故・佐々木基之先生によって提唱された「分離唱」。佐々木基之先生は「耳をひらく」ことを伝へられてゐて、その継承者が鍋島久美子先生だ。「響奏の吟遊詩人」という団体名でハーモニーを教へ、みんなで歌い、「耳をひらくこと」、「聞くこと」を徹底的に教えてゐる。「後ろ側の意識空間」とも表現してゐる。
ホームページ、および、スタピ15号に載った記事。
耳をひらくことは、悟りにも通じるのだらうか?
パンッといふ音の響きに、耳をひらく。
足音や車の音、風の音、電車の音、人の声。
聞き耳を立てるのとは違ふのだらうが(笑)、
音が音そのものとしてあるのを聞く。
視覚においては、覚醒するとものがリアルに見えるが、
聴覚においても、覚醒すると音はリアルに聴こえるのだらうか?
聴覚型で悟った人は、鐘の音で悟る。
ゴーンといふ響きで、悟る。
8月に刊行予定の『カシミールの非二元ヨーガ』は
サブタイトルが、「聴くという技法」。
カシミールの伝統的なヨガを学んだジャン・クラインに
弟子入りした、ビリー・ドイルの本。
訳は、古閑博丈さんの名訳だ。
「聴くこと」が今、きてゐるのかもしれない(笑)。
今日発売のダリル・ベイリーの『ファンタジーの終焉』は、面白い記述をしてゐる。
な~んて、酔いながら書いてゐるが(笑)。
覚醒・悟りは、「動きそのもの」を感得することだと言ってゐる。
パンだったり、指1本だったり、禅で示してゐるのは、対象のそれ(二元のそれ)ではなく、そのもの自身の「動きそのもの」を指してゐる。
覚醒・悟りの書ではよく、対象と対象を認識する主体とそれ自身が一体となってゐることを認識することを言ふ。
主客それ以前のそれ自身の認識・・・
動きそれ自身が展開する。
音それ自身が響く。
引き寄せ難民と言はれてから久しい(のかな)。
今は、ノンデュアリティ難民があふれてゐる。
ノンデュアリティは、理解できない人には理解できない。
一線がある。
ノンデュアリティが広まりつつある。と同時に、難民も多く出てゐる。
まわりの人たちは、一応に理解できないと言ふ。
そのもどかしさに怒りもおぼえてゐるやうだ。
引き寄せの法則とその難民たちは、想念の世界で悶々としてゐるだけだが、
ノンデュアリティ難民は、想念を超える世界を超えられないで悶々としてゐる。
今、ノンデュアリティ難民を救ふべく(苦笑)、いくつか本を企画してゐる。
一線を超えられるか。