キリストを着る

自分は悟れないとすれば、そして眠りのまま生きないとすれば、だうなのか。
悟り=超越者=神=キリストをあてにして生きることになる。
自己と悟りは違ひ、悟りは外在でも内在でもなく、自他を超えたところにある。悟り=神。
縦軸。垂直。
自己は、神(悟り)をあてにして(あてにしてゐることを自覚して)生きる。
キリストを着て生きる。

多くのスピリチュアルの人は「自己」表現をしたいだけ

多くのスピリチュアルの人は「自己」表現をしたいだけのやうに見える。
表現をしたいといふのは人間の欲求としてあるが、「自己」表現となると何か微妙な様相を呈してくる。

「表現」といふのは本来、自己を滅することなのではないか。表現に徹するといふか。
表現に徹することによって、何かが顕れるといふか。

たとへば、
祈り – ラ・フォリア Corelli (袴田美穂さん演奏)

悟りにおいて、「自己」が必要ないやうに。

「何か」といふのは垂直のものか。

「悟る必要がない」といふのは楽だ(笑)。

悟る「人」はゐない。つまり誰でも悟れない。悟る必要がないのだ。
われわれは手足と頭と感情であればよいだけ。
それを徹底するだけ。
あとは「何ものか」が運行する。
空(くう)でもいいし、広大さでもいいし、造物主でも、神でも名前は何でもいい。

心(マインド)は、心として機能していいし、それだけだ。

「目覚めるため(覚醒するため)の情報を提供する」といふ会社の理念も、それを伝へることなのか。

ノーセルフとノーマインドは違ふ

ノーセルフ(無我・無自己)とノーマインド(無心)は似てゐるやうで違ふ。

11月に刊行予定の『無限との衝突』の著者のスザンヌ・シガールさんは、突然、自己が抜け落ちてしまって、それ以来自己がないまま生きてきたといふ(40歳代で脳腫瘍でなくなられましたが)。
自己が抜け落ちた人で他にもバーナーデッド・ロバーツがゐる。『無我の体験』の著者だ。

道元禅師も落ちたのかもしれないけれど。「心身脱落」といふ言葉を残してゐるので。

「菜穂はゐない」とふ名セリフを言はれた大和田菜穂さんも自己が落ちたのかな(笑)。

スザンヌ・シガールさんは、その本の中で「無我・無自己であっても心は働く。恐怖心も持つ」と伝へてゐる。

思考(マインド)はあってもいいのだ。
ただ、主体はゐなくて思考や感情だけが動いてゐる。機械のやうに。

「だうでもいい」「だうしたらよいかわからない」といふ思考や感情もただの働きだ。
主体(自己)はゐない。

だから道元も「只管打坐(しかんたざ)」ただ坐ると言った。主体がゐないで坐るのだ。

修行する主体はゐない。「只管打坐」は本来修行ではないが今の曹洞宗では修行になってゐて矛盾してゐる。
修行は、いろいろなメソッドは、エゴ(マインド)の働きで、それ自体エゴを超えられない。誰も悟れない。悟った「人」はゐない。

思考や感情に自己同一化したとき、エゴ(自己)が生じる。

 

けふの音楽は、ジャスムヒーンさんが紹介してゐたYellowBrickCinema
どれを選んでもいいと思ふ。そのときの気持ちで。

「だうでもいい」といふ思ひの意識

「まう、だうでもいい」「だうしていいかわからない」といふ(苦悩の)思ひの意識が問題を作り出してゐる。

その思ひがなければ、「だいでもよい」「だうしていいかわからない」といふ思ひが消えてしまふ。

さういふ思ひが消えてしまへば。

だうしたらその思ひが消えるのか。

そのこと自体の気づきが、消へてしまう一歩か。

その思ひが消えてしまへば、すべては解決してしまふ。

 

けふの音楽。モーツアルトのフルートとハープの曲。安らぎの曲

着実にしかできない・・・

某ヒカルランドさんは、よくわからないけれど「白い帽子」のカタカナ名の本で話題になってゐるけれど(笑)、うちは何の話題性もなく地味に着実にしか本を出せない。すぐにパッと売れる本を出す力量もない。
(石井社長、がんばってゐるね!)

長く売れる本は出せるけれど、長く売れるようになるまで持てるかどうか・・・

上方への落下』は今年出した本の中でも内容的にとてもいい本なのだが、売れ行きも評価も評判もイマイチだ。ロングで売れるまで持ってくれるのだらうか。
この本の良さをわかってくれる日本人は少ない。超がっかり。
日本人の低レベルさよ。

日本人の精神性が高いなんてウソだ。僕は信じてゐない。
外人も高くはないのかもしれないが。人数的のは外人のほうが精神性が高い人が多いのかな。

日本人の精神性を伝えてゐる『日本の神々と天皇家のルーツと役割』も今月末に出させていただく予定だが(苦)。一部の人にとっては日本人の精神性はよくて海外に伝へたいようだが。
その辺が自分にはまだよく理解できてゐない。

 

日本人は深まりがないのかな。
深まりがない分、高まりもない。

 

けふの1曲、韓国のチェロの曲。「10月のある素敵な日に」(元曲 シークレットガーデン〈ロルフ・ラヴランド作曲〉「Serenade to Spring」)
そんなに深い感じもしないけれど、ある程度深くてちょっと軽い、いい感じの曲。ちょっと至福。

どうでもいい

けふは、大和田菜穂さんとのYoutubeのスタピ・チャンネルの「今井の宇宙室」の収録日でした(笑)。

そこで、自分が常日ごろ感じてゐる「すべてはだうでもいい」といふことを聞いてみました。

すると、菜穂さんは、すべてはだうでもいいとは思ってゐないといふことでした。

「だうでもいい」とは相対的な概念で、二元的なものだといふことでした。

 

これ以上は酔ってゐてアウト。

聖霊の導き

スタピ・オンラインで来週あたり掲載予定のアラン・コーエンさんの記事に下記の文章がありました。
(先走りで紹介してすみません! もしよければ掲載されたら読んでみてください)


「奇跡のコース」は私たちに対し、“自分の知性にのみ頼っていては、健全な決断はできない”と明確に言っています。
「奇跡のコース」は、
「今すぐに自らの教師を辞することです」。
「あなたは、奇跡へと導く自分自身のガイドにはなれません。なぜなら、ガイドを必要としたのは他ならぬ、あなたなのですから」。

いつもコントロールしようとするエゴに頼るのではなく、スピリットからのガイダンスを求めるのです。

今まで自分は、自分の考へ・思ひで決めたつもりになって生きてきた。自分の思ひが実現することを望み、それが叶はないと挫折し、それで勝手に苦しんでゐた。(カードや霊能者にも聞いたりはしてゐるが、苦)
これからは、手放して、スピリット(聖霊)からのガイダンス(導き)に頼ってみようかな。

今月出す『無力の道』『スピリットに目覚める』ともシンクロしてゐる。

覚醒して生きるといふのもさういふことなのだと思ふ。
(自分が抜け落ちて生きること)

「聖霊の導き」に関しては、ヤスパースも『哲学入門』で「神の導きで生きる」と書かれてゐたやうな。

 

今回の記事は宣伝めいてゐるな(笑)。
そのつもりはなかったのだが。

やはり打算之助

うまくいかないことの連続で、やってもやってもだめで、だうしやうもなくなって、最後に残るものは何か?

パウロは、愛と希望と信仰と言った。その中で大いなるものは愛だと。

ヤスパースは、『哲学入門』の中で、エレミヤが「神が存在するだけで十分である」と示したと言ってゐる。

ヨブは、艱難の連続の中で神への信仰をつらぬいた。

自分はだうか。
包丁を腹に当てたとき、自分が死んだら銀行からの融資の返済はだうするか、会社はだうなるのか、今まで刊行してきた本の行く末は? 社員は、 家族はだうやって生活していくか、と打算が働いた(笑)。やはり自分は打算で生きてゐるのだなと思った。

「神が存在するだけで十分である」

神との葛藤は、そこにはない。
自分は葛藤だらけだ。無力の中であがく。

自分にはもはや何もいらない。スピリチュアルな概念も理想も何も求めてゐない。
向上も求めてゐない。不可能だからだ。
打算だけで生きていく。打算もどうでもいいのかな。

短気も治らず、破壊衝動も治らず、精神病人である。
暴飲暴食で内臓もやられてしまった。

この現実への自己同一化から離れられないでゐる。

 

いつもコメントをいただいてゐる鬼塚美知さんが、
非公開にした投稿にコメントをいただいたYoutubeの音楽と映像を2つここに紹介します。
鬼塚美知さん、ありがとうございます。
O Holy Night / Ave Maria ft. Lexi Walker – The Piano Guys

Someone You Loved (Piano/Cello) Charity & Andres Farewell Dance – The Piano Guys

三浦春馬、竹内結子

三浦春馬と竹内結子は自殺したらしいと聞いたが、自分もその二人と似たやうなもの。
いつ自殺してもおかしくない。

二人は首吊りらしいが、自分は切腹か(笑)。
かたじけないない、と。

いろいろな人に迷惑を掛け、たくさんいたらないところがあり、
生きていてもしょうがないところがある。

死んで迷惑を掛けるのも面目ない。
迷ふところ。

こんなことを書いたら保険会社はいい思ひをするかもしれない(笑)。
いくら保険をかけてゐるかしらないが(苦)。
その辺、全然わからない。

切腹して変に報道されるのも嫌だ。
ひっそり死ぬ形がいいのかな。

たぶん、自殺することはないと思ふが。

あとは、いつ死ぬかだ。

まだ、だうやって死ぬかが見えない。