杉並区にサルタヒコ神社が二つもあった!

最近、何人かの人に会ったとき、サルタヒコ(とその神社)のことが話題に出た。サルタヒコ(猿田彦)大神は、道ひらきの神様だ。会社が厳しいこともあり、サルタヒコ神社に参拝せねば、といふ思ひにかられ、調べたら都内に3社。赤坂の日枝神社の境内に1社と杉並区に2社あった。わりとうちの近くだ。

東京都杉並区阿佐谷南1丁目1−38の猿田彦神社

東京都杉並区本天沼2丁目にある本天沼稲荷神社の
少し北のはうにある猿田彦神社

三社を参拝した(通り過ぎ参拝もあったけれど)。
写真も載せたかったが、夕方で暗くなったので写真は撮らなかった。
(暗くなってからの参拝といふのはよくないらしいが、朝が苦手で、うだうだしてゐると夕方になる)

ある霊能者に言はせるとすぐに効果は出ないと(苦)。

現世利益バリバリだ。
おすがり人生。

本よ、売れてくれ
WSよ、人がたくさん来てくれ

新たな商売も考へなくては。

HPもちょっとリニューアルする予定。

三次元と五次元の同時存在

普段生活してゐる三次元(時空としてみれば四次元)は、意識の投影された世界。想念、観念で構築された世界。対象としての三次元・時空とそれを認識し包摂してゐる意識。その意識は三次元・時空(四次元)を超越してゐる。つまり五次元にゐる。その意識は、覚醒意識・悟り・非二元の意識とも呼ばれてゐる。

アセンションは、三次元から五次元に移行することと言はれてゐる。本当は既にみんな五次元にゐる。気づいてゐないだけで。

三次元と五次元の両方で生きてゐる。

 

信仰心がない

線香による先祖供養をこの数年毎日のやうにいつもしてゐるのだが、知り合いの霊能者によると全然先祖に届いてゐないと言ふ。気持ちが伴はないと作用はしないらしい。

 

確かに僕は信仰心はない。

形だけだ。

 

形だけ先祖供養してゐるつもりでも内実が伴はなければ意味がないらしい。

 

全然、信仰心がない。

これも会社が厳しい理由の一つか。

 

 

穴倉社長

経営コンサルタントで著書も多く出してゐる一倉定氏に言はせれると、社長は会社に居ては良くなくて、外に出てお客様まわりをしないといけない、と言ふ。
他の出版社の知り合いの社長は、外に出て他の会社と企画の打ち合わせをしたり、いろいろ営業してゐる。さすがだと思ふ。
僕は会社にも午後か夕方出勤だし、外に営業にも行かない典型的な穴熊社長だ。夜も飲みが多かったり、あまり仕事もしてゐなくて、これで社長が務まるのか、と突っ込まれると、務まらないと応へざるをえない。会社が厳しいのも当然といへば当然だ。

 

人前に出るのが超苦手で、話すのも超苦手だ。
ただフラフラしながら生きてゐる。
思ひつきで生きていて、漫然と生きてゐる。

どうせ死ぬし、みんな死んでいく、物事はその過程での出来事だ。

引き寄せは、うたかたの夢、覚醒にとらはれるのもまた夢。

 

さういへば、駅の階段で重い荷物で苦労してゐる年配の男性を見て、
打ち合わせで急いでゐるといふ理由で手助けをしないで通り過ぎてしまったことが 後悔される・・・

世の中との乖離 2

世の中との乖離について書かうと思ったら、数日前に書いてゐた(苦)。

全然憶えてゐないといふのも、病氣の一つだ。

世の中には流れのやうなものがあって、スピリチュアルへの人々の関心についても流れがあって、それと自分の流れとが一致してゐない。

 

酒の飲みすぎで心身が狂ってしまったのか。

 

怒濤の流れに翻弄されてゐるやうな。

今の自分には「引き寄せの法則」は関心がない。引き寄せられたから、だうだといふのだらう。

(ちなみに「引き寄せの法則」といふ言葉を編み出した一人が僕ではある。知る限りでは、別々に同時期にあと二人別の出版社の人が、自分が「引き寄せの法則」という言葉を作った、というのを聞いたことがある。ニュートン、ライプニッツ、関孝和が同時期に別の場所で微分積分を発見したのと同じ原理かもしれない。「引き寄せの法則」という言葉を編み出すときに、「引き付け」「引力」「牽引」とかいろいろ当てはめてみたが、「引き寄せ」が一番ピンと来たから本のタイトルと本文の中の該当箇所に使った。エイブラハム・ヒックスの本でソフトバンクの『引き寄せの法則』と弊社の『引き寄せの法則のアメージング・パワー』は、発売日が1日違ひだった。さらに同時系(シンクロ系)では、弊社刊行のジャスムヒーンさんの『リヴィング・オン・ライト』と山田鷹夫さんの『不食』も発売時期がほとんど同じだった。)

「ワクワク」も感心がない。

いわゆるスピリチュアルっぽいものにも関心がない。

覚醒には関心がある。非二元の一時的な人気に左右されたくない。

(覚醒した人は変な性格だが、苦)

UFO、ET、多次元的なもの、宇宙の根本原理みたいなものにも興味はある。

興味や関心をもってゐるといふ主体は誰か?

結局、覚醒やETも単なる関心(エゴ・想ひだけの世界)で、根本的には流れ(タオ)の中ではだうでもよいのかもしれない。

タオの中に身を置くとき、世の中の流れが体を通り過ぎる。