惚(ほう)けてきた

毎日のやうな暴飲暴食で、だいぶ頭が惚けてきた。
あまり思考も働かなくなった。脳がやられたのかな。
覚醒への意欲も減退。年なのか。諦めたのか。

これでいいのかもしれない。
覚醒への操作をすることがないといふことが。
そのままで生きることが。

スピリチュアルな活動をしてゐる人や、それの売り込み、お誘いも煩わしい。
人とあまり接したくない。

星降る夜空

東京では、地方の町でも、星降る夜空を見ることはできなくなった。
山奥のほうに行けば、また世界の僻地に行けば、星降る夜を見ることができる。
人々は、数多(あまた)の星と共に生きてきた。

その体感が今はない。

テレビの映像では夜空や星々の映像を見ることができるが、
テレビといふ枠の中だけのこと。
視界一面ではない。

人は自然(宇宙)を失ひ、妄想の世界に住むやうになった。

あるひは、星に想ひを(全身として)馳せなくなった。

愛の空間

いろいろなことに忙殺され、いろいろなことが起こり、こちらのほうの書き込みは間があいてしまった(笑)。

覚醒の空間は、別の表現では愛の空間といへる。
愛の空間を感じるとき、人は満たされる。

愛は神であり、神は愛である、といふのも、さういふことを指すのかな。

心を常に愛の空間に向けてゐたい。

日本の建国は奪う(征服の)建国

日本は、記紀の伝説では、神武が日向(宮崎)から進軍して、大和(奈良)や和歌山に住んでゐた人々を征服して作った国。元々住んでいた住民にとってはたまったものではない。
記紀においては、その後も天皇家は親族で殺し合ひをしてきた。(落ち着くのは奈良時代くらいからか)

神話においても、オオクニヌシ(オオナムチ)の国をアマテラスが奪った。オオクニヌシや子孫は殺されたり幽閉されたりした。

建国記念の日は、祝ふ日ではなく、さういふことを考へる日だ。

イエスは尸解仙(しかいせん)

尸解仙(しかいせん)とは、道教の言葉で死んだときに肉体が消える人を指す。
チベットのボン教やチベット仏教のゾクチェンでは、ゾクチェンの修行ができてゐる人は死ぬときに、徐々に体が小さくなり、最後には消えていくといふ。そして虹の体(レンボーボディ)になる。

イエスも肉体が死んだとき、洞窟の墓場に入れられ封じられてゐたが、翌日明けてみたら肉体が消えてゐたといふ。その後、弟子達や信奉者達に肉眼で見える形でしばしば現れたといふ。虹の体を獲得し、物質化に近い状態まで変成もできるスキルを身につけたのだろう。しばらく見える形で現れたといふが、その後は見える形では現れなくなった。虹の体のまま活躍してゐるのだらう。
イエスはまさに尸解仙だ。

尸解仙は日本でも国安仙人ほか、何人かゐるやうだ。

生きてゐるときに昇天する「白日昇天」も、死ぬ時期が来たとわかって昇天する(肉体を消す)のだ。
ゾクチェン修行者が死ぬときに、テントに入って死ぬ準備をして消えるやうに。
みんなある意味、尸解仙だ。

イエスも道教やゾクチェンのやうな修行をしてゐたのかもしれない。

心の内に神を祭ること

『よひとやむみな』の心の内に神を祭ることって、心の中に神棚みたいなものを想定して、お札みたなものを置くイメージがあったが(笑)、そんなちっぽけなものではないのかな。
エゴ(想いや考え)を捨てたときの意識に顕れる、ドバーっと広大なものといふのが合ってゐるのかと思ふ。

真我認識と神を内に祭ること

ノンデュアリティ(非二元)の「真我認識」と、『よひとやむみな』で言はれてゐる「心の中心に神を祭ること」とは関連してゐるのであらうか。

意識(心)の周辺にゴモク(ゴミ)といふエゴや欲や善い悪いを判断する思考や感情があり、中心に台風の目のやうな静かな心があり、そこに意識をもっていくと神や宇宙とつながると『よひとやむみな』では伝へてゐる。
その中心に意識を置くとき、神を祭る場所ができ、そこに神が入ってくるといふ。

これはまさに「真我認識」(覚醒・悟り)と同じものだ。
想いに浸ること(エゴ)をやめ、主客同時認識によって、真我を認識する。真我は超越者でもある。
しかし、「真我認識」には中心がない。内もない。あるひは、外も内もすべてが内か。

「身魂磨き」とは、「真我認識」に他ならない。

真我を認識できてゐれば、大峠が来ても来なくても、どうといふことはなくなると『よひとやむみな』は言ってゐるのかもしれない。

ナチュラルスピリットも、エゴをやめ、真我(神)を認識しようといふ情報を伝へてゐるだけなのかもしれない。
それ以外の情報(霊的世界のことやその他)も伝へてはゐるが。