非二元のワークショップ

最近の傾向としてワークショップの集客は二極化してゐる。
人気のある先生はすぐ満員になり、そうでない先生はなかなか集まらない(苦)。

ここ数年、非二元の先生たち(海外含む)にワークショップの開催の打診をしてきたが、なかなか実現する数が少ない。
非二元の先生たちは変わった人が多い(のかな)(笑)。

いろいろな人がゐる。中にはファーストクラスやビジネスクラスを要求してくる先生もゐる。健康面を考えてらしいが。

細かい人もゐるし、あまり氣にしない人もゐる。

もっと非二元のワークショップ(お話会)をして、もっと非二元を盛り上げていきたい。
もっと非二元に目覚める人が増えてほしい。

非二元難民を減らしたい(笑)。

エネルギー不足?

最近、流行歌も出ない。
この話題は前から言ってゐるけれど(苦笑)、今、文化を創るエネルギーが不足してゐるやうに思ふ。
人々の集合意識を動かすエネルギーが不足してゐる。
創造の源につながり、そこからエネルギーを汲み出すエネルギーが枯渇してゐる。

低文化時代。

人々はゲームにはまり、ネットにはまり、エネルギーがそこに吸い取られてゐるのかもしれない。

エネルギー不足だと、人の真実が薄っぺらいものになってしまふ。
偽善になってしまふ(苦)。

今の時代における人の真実を表現できてゐない。

といふことは、もう前の時代とは変はってしまったのだ。意識が。
そしてそのことに気づかず、前の時代の文化、生き方を形として踏襲してゐるだけになってしまってゐるのだ。
だうしていいかわからずに。
さうしていれば安心だといはんばかりに。

今は破綻の中で、源につながるしかないのだ。

アーティストよ、創造の源につながれ!

脱力と悟りの関係

筋肉が緊張したまま(力が入ったまま)なのは、何かの想ひ(思考)に浸ってゐるからだ。想ひが筋肉の緊張をもたらす。
ストレスも想ひからくる。

想ひに浸ることをやめると(想ひに対する自己同一化をやめると)、覚醒(一瞥)が起こる。
完全に想ひに浸ることをやめ、自我が抜け落ちると悟りが現れる。

悟ってゐる人は、想ひに浸っていないから筋肉の緊張がない。脱力状態だ。
悟ってゐるかゐないかを見分ける方法の一つは、顔や身体に緊張感があるかだうかだ。
顔がだらっとしてゐる人は白痴か悟った人(覚者)かだ(笑)。
緊張のある顔の人は、悟ってゐない。

黒住宗忠は、白痴のやうに見られるやうになって喜んだといふ。
それだけ本物になったといふことなのだらう。

良寛もさうだ。

一休さんではないが、一休み、一休み。

一発屋と継続的なヒットを出す人との違ひは?

歌にしろ何にしろ一発屋と継続的なヒットを出す人との違ひは何だらう?
一発屋は1回しかインスピレーションが降りて来なかった。
継続してインスピレーションをキャッチできない。
継続してキャッチする方法・感覚を知らないのだ。
何かのきっかけで1回だけ幸運にも降りてきた。キャッチできた。

それでは何回もヒットを出せる人はだうしてゐるのだらう?
何が違ふのか?
わかればみんなヒットを出してゐる(笑)。
さういふ人は天才といはれる人なのだらうが。
汲めどもつきないインスピレーションの泉につながってゐる。
どんどん溢れかえってゐるのかもしれない。

何かに焦点を当ててゐる?
聴くことに。
聴こえない音を聴くことによって聴こえてくるもの。
それが創造の泉か。
非二元の超越者のしじまの空間。

氣が狂ふ主体は誰か?

氣が狂ふとき、誰が狂ってゐるのか?
氣が狂ひさうと思ふとき、誰がさう思ふのか。

苦悩するとき、苦悩してゐる主体は誰か。
想念だけで、思ひの世界だけで苦悩してゐる。
それが身体に負荷(ストレス)をかけ、筋肉に抑圧したエネルギーが溜まる。

想念の主がいなくなれば、苦悩することも気が狂ふこともない。
ストレスもなく、抑圧したエネルギーが筋肉に溜まることもない。
身体は、リラックス状態だ。

文筆の星

つづけざまに書く。
ブログ的には一日一つがいいらしいが、氣にしない。

先日、算命学(四柱推命のうちの年月日で占うもの)を勉強してゐる人から見てもらったら、文筆の星があると言はれた。それも天中殺が入ってゐるので、変な文筆で成功すると(笑)。

スタピで読むとき「発行人愚言録」から先に読む人がゐるらしい。(何人からか聞いた。笑)

変な文筆でやるしかないか(笑)。

禅とゾクチェン

禅と(チベットの)ゾクチェンは、覚醒・明智(リクパ)で生きるといふ点では共通してゐる。悟りに関しても同じだ。
だが、禅師が死ぬ時は普通に死ぬだけだが、ゾクチェンのマスターは死ぬ時に「虹の体」となってエネルギー体となって死んでいく。
この違ひは何か?

やることなすこと(なさないことも)

うまくいかない!
ついに家の電話機も壊れた。
家のパソコンも壊れたが(会社のも含めて2台め)、入れ替えと新規インストールで計4台のパソコンにシステムを入れないといけない(苦)。
今度出す予定の出版物も何冊もうまくゆかない。
あげくの果ては、会社のマンションの玄関前のたばこの吸殻を拾って、ポストのあるところに設置されてゐたごみ箱に捨てたら、管理人がたばこの吸殻がごみ箱にあるのを見て(危険とみなして)ごみ箱を撤去してしまった。良いことをしたつもりがあだとなった(苦)。
既刊の売れ行きもよくない。
7月は惨憺たる状況だ。
ネガティブ波動にさらされてゐるのか……
嗚呼。

ブッダ

ゴータマ・シッダルタは、覚醒し悟りを得てブッダとなった。
悟った人は、ブッダの前にもゐたかもしれないし、ブッダが悟ったあとは悟った人が輩出し、現代も悟ってゐる人は多い。
みんなブッダと同じ悟りだ。上下はない。
ブッダは覚醒を伝えたにすぎない。
それが仏教といふ宗教になってしまった。
ブッダが神に崇めれてしまった。
ただ、覚醒を伝えただけなのに。
今では宗教にする必要はないし、ブッダは覚醒した人の一人でしかない。
仏教は宗教である必要はないし、宗教をやめる必要がある。覚醒ということにおいて。
先祖供養といふ仏教は、別なのであらうが。それはそれで必要だと思ふが、それはブッダの教え(覚醒)とは別だ。
今の「覚醒ブックス」の本がブッダの教えだ。