といろいろな人が言はれてゐるが、うそだと思ふ。
今までいろいろな人が試みたがほとんど失敗してゐる。
弊社も試みたが失敗した(苦)。
それぞれの国でできることをしていくしかないのだと思ふ。
日本人は自分たちが優れてゐると思ひたいのかもしれないけれど、
日本はスピのレベルが低いのかな。
少なくとも非二元のレベルは低いやうな。
チャネリングのレベルも低い。
それに能力のある人は表に出てこようとしない(苦)。
これでは日本のレベルが上がらない。
といろいろな人が言はれてゐるが、うそだと思ふ。
今までいろいろな人が試みたがほとんど失敗してゐる。
弊社も試みたが失敗した(苦)。
それぞれの国でできることをしていくしかないのだと思ふ。
日本人は自分たちが優れてゐると思ひたいのかもしれないけれど、
日本はスピのレベルが低いのかな。
少なくとも非二元のレベルは低いやうな。
チャネリングのレベルも低い。
それに能力のある人は表に出てこようとしない(苦)。
これでは日本のレベルが上がらない。
先日NHKで放映してゐたスコセッシ監督のボブ・ディランの映像作品(前編・後編)はとても刺激的だ。
ボブ・ディランの詩の才能にはものすごいものがある。
ノーベル文学賞を取るだけののものがある。
時代を動かしてきた。
時代を動かすだけでなく真理にも触れた作品を世に出してきた。
ボブ・ディランの人相にもその真のものが出てゐる。
その映像作品を見てゐる人は納得してゐると思ふが見てゐない人はオンデマンドか何かで見てほしい。
そこには何かの真実がある、といふことを。
いろいろ学ばされる。
僕も含めて能力のない人は多い。能力のある人は一部。
性格が悪いのは論外だが、性格がよくても能力がないと質のいいものができない。話にならない。
昔、コンピュータのプログラム開発の仕事をしていたときに聞いた話。
5人の能力のないプログラマーが、プログラムを作っていたが一向に完成しなかったところへ、
優秀な1人のプログラマーが参加することによってあっという間にプログラムが完成したという。
5人のプログラマーは何の役にも立たなかった。その職場にはいなくてもいい存在(笑)。
出版にも他の業務にもそれは言へる。
能力がない人にお願いするとはかどらないし、質もいいものが上がってこない。
大部分がさういふ人。あぁ。
能力のある人が、質のいいものを作っていく。売れるものを作っていく。
能力のない人はだうすればいいのかな。自分の能力にあった適職につくこと。
能力がなくても、その人の人格を否定するといふことではない。否定しない。尊重する。
ただ、あぁと思ふ。
目的社会(仕事)では、能力のある人だけが結果を出せる。
がんばっても能力がなければ結果が出ない。
パワフルな年齢のときは「引き寄せの法則」だの「願望実現の法則」だのに関心をもち、ああだかうだするが、パワフルな年代を過ぎると、もはや、さういふことにさくエネルギーがなくなる。
まう生きる先に「死」が見えてゐる。死が見える中での引き寄せや願望実現云々はむなしい。
「死」が見えてきてゐる世代では、諦観であきらめの境地で生きるか、神との関係で「永遠の相」で生きるていくか。
神(すべての根底にある超越したあるもの。二元を超えた存在)をしっかりと把握し、死を超え、肉体を超えて、意識として(非二元の意識として)永遠存在として生きていくのかだうか。
『奇跡のコース』とはさういふ本だらう。
(分量が多くて、理屈っぽいが。苦笑)
ちやうど来月出版(復刊)予定の『バーソロミュー3』のチェックをしていたら、かういふ文章で出会った。
(前も読んでいたけれど、すっかり忘れてゐた)
「イライラなどの感情が自分のなかにあるからといって、それを外界で表現しなければならない
ということにはなりません。自分を傷つけた相手に向かって、どんなに傷ついたかを常に思い知
らせる必要はありません。(中略)考えを押しとどめて、感情が生まれないようにし、それらのすべてを通り越した心の内なる場所に降りていき、平和と静寂と無批判のパワーのなかで憩うことを選択することも可能です。どんなときでもこのやり方を選ぶことができます。」
反応せず、「平和と静寂と無批判のパワーのなかで憩うこと」ができたら。
昨日のやうな馬鹿だの阿呆だのイライラはしなくなる。
また、バーソロミューは、かうも言ってゐる。
「目の前の障害に対して怒り、イライラしている自分を発見したら、唱えるのです。『すべ
ては神である』」
未熟すぎる自分だが、トライしてみよう。
今までは、ものに当たったりしてきた。その結果、ものが壊れたり。
最近では、椅子を蹴って逆に足をくじいてしまった(苦)。
今年は、出版がぽしゃった本が3本も出た。かういふことは今までなかった。
著者や訳者と編集者の折り合いがうまくゆかなくなり、調整に入って余計こじれ、では出版はナシにと著者や訳者がなる。最低である。それで100万円単位で大損をしてしまった。
すべての損害が出版社に来る。クソッ。
多くの場合、著者や翻訳者がかたくなで編集者にゆずらない。
有名な作家先生ならともかく、そうでない場合は編集者や出版社のほうが裁量権がある。
そこまで優れた文章なのかといふと、さうではない。
出版社が大損して、悪いのは出版社になる。アホか。
といふテーマで書かうと思ってゐたが、なんか物事は思ふやうに運ばず、交渉は決裂、事態は最悪の結果になる出来事があり、気分が悪い。
経営なんて、その連続であり、ストレスの連続であり、身も心も保ちにくい(苦)。
四柱推命では、自分の命式が身旺と身弱の中間くらいで経営者にはちと弱い命式かもしれない。
経営者は身旺が向いてゐるらしい。(こんど出す四柱推命からみた天命の本を読んで(笑))
「神の声」であるが、これは『奇跡のコース』のワークブックのレッスン49に出てくる。
「「神の声」は1日中、私に語りかけています。」
どんなときでも「神の声」は聞こえるといふ。
丁度、次の『スターピープル』65号の第一特集が「聴くといふこと」。
(まだ、amazonにアップされていないのでリンクできない。苦)
「神の声」を聴くとはだういふことなのだらう?
中村天風さんは「地の声」「天の声」を師から聴くやうにと言はれ修行したさうだ。
「天の声」とは「声なき声」のことだといふ。
「天の声」とは「神の声」のことであり、「神の声」とはすなはち「声なき声」のこと。
沈黙の声、静寂の声。
常にその声は聴けるもの。
心をそこに向ければ。
人間といふものは中空存在かもしれない。
肉体と脳みそを通して「何ものか」が作用してゐる。
脳みそがフィルターで、そこにエゴが発生したりする。
ただ脳みその働きだけにし、肉体が動くだけにすれば、「何ものか」が働く器に過ぎなくなる。
ただ肉体と声が動いてゐるだけに過ぎないやうに感じる。
そこには「何もの」もゐない。「何ものか」があるだけ。
人間とは中空存在。
処理しないといけない仕事の数が多すぎて、処理しきれない。
次から次へと舞い込んでくる。
対応しきれない。
自分のキャパオーバーだ。
やりたいこともほとんどできてゐない。
だうしたのだらう。
誰か替わってくれ・・・
ビジョンを一つ一つ実現していきたいのだが。
瞑想と対比されるものに「祈り」がある。
イエスは瞑想していたイメージはないが、祈っていたとの記述は聖書にある。
イエスは常に神に心が向かい、神の光をあびて行動してゐたように見える。
祈り、あるひはイエスの祈りとは何だったのか。
祈りは、自己と神との二元の世界の交わりのやうにも思へ、
まだ自己が残り、非二元や悟り(覚醒)とは違ふとも思ってゐた。
しかし、最近「祈り」にも関心が向くやうになってきた。
祈りは、神と自己とを結び、一つになることか。
一つになり、一体感を感じることか。
それによって困難、艱難を乗り越えていくことができる。