「怒る人は悟ってゐない」と島田明徳氏は本で書いてゐる(『気の輝きに包まれて』)。
俺は怒りまくってゐるので悟ってゐない(笑)。
なぜ怒ることは悟りではないのか?
大元とつながり、大元で生きてゐたら怒りは生じない?
自他が一つのものとして認識して生きてゐたら怒りは生じない?
怒り以外にもネガティブな感情は生じない?
苦悩も生じない?
自己が抜け落ちてゐるから怒りが生じない?
「怒る人は悟ってゐない」と島田明徳氏は本で書いてゐる(『気の輝きに包まれて』)。
俺は怒りまくってゐるので悟ってゐない(笑)。
なぜ怒ることは悟りではないのか?
大元とつながり、大元で生きてゐたら怒りは生じない?
自他が一つのものとして認識して生きてゐたら怒りは生じない?
怒り以外にもネガティブな感情は生じない?
苦悩も生じない?
自己が抜け落ちてゐるから怒りが生じない?
交渉ほど人生の中で嫌なものはない。
この世で、交渉といふものがなくればよい。
それぞれのエゴと要望と生活が掛かってゐて、
それに対して調整しないといけないことは
うんざりするほど、へどが出るほど嫌だ。
死ぬほど嫌だ。
交渉が得意な人に譲りたい。
交渉から解放されたい。
交渉して100戦100敗。
今年もそれで何冊も出版がぽしゃった。
人間関係も悪化した。関係も途絶えた。
これかも同じことが起こるだらう。
俺に交渉させるのは間違ひだ。
交渉していいことなど何もない。
この世の中から交渉といふものがなくなればいい。
出版社は、いきがらないといけない。
弊社も創業のときはいきがって、いろいろこれでもかみたいな本を出してきた。
でも、ネタギレか最近はみんな二番煎じ的で新しいものが少ないせいか、これでもかみたいなものが出せてゐない(苦)。(どこも出せてゐない)
いきがりも足りない。
俺が年取ったせいもあるのか。
世代交代の時期か。
年取ってもいきがれるのか。
非二元を中心に、宇宙の根本的な仕組みを示したもの、ゾクチェンのこと、願望実現のような若い時の熱情ではない生き方の本とか。エソテリックな本とか。神道や霊的未解明なことの探索とか。
高次の意思を表現したものとか。
アスペルジェス・メ
今年はやることなすこと齟齬をきたした。
12月は交渉もうまく行かずぽしゃったり、いろいろだった。
12月は水星の逆行(23日まで)でコミュニケーションがうまくいかないらしいが、
他の方々もさうだといふ話を聞いた。
土星が山羊座に20日に入ったさうで、それで何かが変はるらしい(笑)。
まあ、天体の運行でわれわれの精神状態は影響を受けるらしい。
それはともかく、人と接してゐるといろいろ不愉快な思ひをする。
まう感情的になって壁を叩きたくなる(苦)。
南方熊楠も感情的になって、ちゃぶ台をひっくり返したらしい(NHKの知恵泉)。
人から何を言はれやうが氣にしなくなれれば、それが一番いい。
一休さん曰く「氣にしない、氣にしない」
対処しないといけないことは対処し、あとはその人の言ひ方に問題があるのであって
自分とは関係ないと思へば。
あとを引くのは、悟りではない(大笑)。
禅語録で、あとを引く話はたくさん?出てきてゐて、師にこっぴどくやられてしまふ。
あとを引かなければ、即ち悟り。
昨日、居酒屋で食べた海産物にあたったのか、胃に激痛が走り、かなりの時間もがいた。
胃痛はおさまったが、体調はイマイチ、微熱もある。
仕事も捗らない。
二日酔いはしょっちゅうだが、かういふのは久しぶりだ。
神や天使や日本の神々は、人の願望の道具、使ひぱしりなのか?
天使は、天の使ひであって、人の使ひではない。
使ひぱしりは見当違ひのやうに思ふ。
日本の神々もさうだ。
神(絶対神)は、二元を超越してゐるがゆえに、人の二元的な願望には関心がないやうに思ふ。
ただ、奇特な存在もゐる。
菩薩は、特に観音菩薩は、人々のあらゆる苦しみを救ふという望みを持ってゐるらしい。
イエスは、上着をとられたら下着も与へなさい、と言った。
相手の願望をかなへる、かなへたい存在もゐるやうだ。
人間としてはだうなのだらう?
相手の願望をかなへてあげたいだらうか?
相手の願望の使ひぱしりになれるか。
さういへば、居酒屋の挨拶で、
「はい、喜んで」といふのがあった(笑)。
アメリカ人は、人に対して「何か助けてあげられることはありますか」(May I help you?)といふのが口ぐせらしい。
人間の願望実現のためには神々や天使、霊に頼らず、人間がかなへてあげればいいのかもしれない。
他人が何か望んでいたら、「はい、喜んで」助けてあげられたら。
言葉には願望実現する力がある、といふ話ではない(笑)。
言葉の力、といふか詩の力といふべきか、言葉には独特のイマジネーションの力があり、それがグッと心に迫るといふか、独自の力、魔術がある。
それは今日、忘年会の二次会のカラオケ屋さんで、カラオケの歌詞を見ていて感じた。
作詞家は、工夫しながら言葉を紡ぎ出してゐる。見事な言葉の数々。
その中で感心したのは『なごり雪』の詩の中の「時がゆけば」という言葉。
時がゆく、とはだういふことだらう?
そこにはいろいろな要素が入ってゐる。入り過ぎるほどに。
その言葉だけで、圧倒されてしまった。
言葉といふものはこの世的で、二元的なものではあるが、
言葉を駆使することは、魔術をつくりだす。
初めに言葉ありき。
苦難とか試練とか一言で言はれるけれど、二語の言葉以上にきつい。
そして、自分の苦難のきつさはわかるが、人の苦難のきつさはわからない。
平気で人を傷つけてしまふ。
一瞥(小悟)しても苦難は消えない。
悟り(大悟)を得たら苦難は消えるのか。
イエスは苦難を感じたか。
祈っても苦難は消えない。
ただ耐える力は得られる。
熱い男?(笑)
30代前半でなくなったとされてゐるので(実は何歳まで生きたかは諸説あるが)、若いイメージがある。
中年や老年のイエスはどんな感じになってゐたのだらう?
もしその世代のイエスがゐたら、自分にとっても参考になるのかな。若いイエスも参考にはなるが。
神を宿したイエス。
一人で世界をひっくり返してしまった人。
人類にとっては永遠の課題。
来年、イエスの本を何冊か出していくけれど、どんな感じで傳はっていくのかな。
人々の悲しみも苦しみもすべて背負うといふ・・・
クリスマス・シーズンになるとクリスマス・ソングが街中に流れる。
今現在の状況はクリスマスでも年末でもないない状況で、全然そんな気分ではないのだが、
(今年はクリスマスなんてしないんだらうな)
クリスマス・ソングを聴くと、どの曲もさうなのだが、そこに聖なる息吹きを感じる。
クリストのエネルギーが降り注ぐのか、人々のクリストへの想ひが聖なるものにつながり、曲に顕れるのか。
仏教では、ブッダへの想ひでは、聖なるものへつながらない(笑)。
覚醒といふ非二元の聖なる空間を明らかにした人ではあるが。
なぜだらう。
ブッダはまだまだ人間的なのかもしれない。
イエスは聖なる存在が人間化したもの。または、聖なるものが人の魂に宿った。
山川草木悉有仏性
聖なるものはすべてのものに宿ってゐる。