グルジェフの第二のショック「不快感を表現しないこと」は、自己(エゴ、自我)がないときに実現できる。
自分があると、何かあったときに不快に感じてしまふ。
自分がないと、何を言はれても不快に感じない。
グルジェフの第二のショックは、無我(ノーエゴ)の訓練(道)である。
自己想起をし、その次に無我。
グルジェフの第二のショック「不快感を表現しないこと」は、自己(エゴ、自我)がないときに実現できる。
自分があると、何かあったときに不快に感じてしまふ。
自分がないと、何を言はれても不快に感じない。
グルジェフの第二のショックは、無我(ノーエゴ)の訓練(道)である。
自己想起をし、その次に無我。
グルジェフは内的な進化の道として、最初に「自己想起」(見てゐる自分を見ること)を説く。
これが、第一番目の意識的なショックだ。
そして次の第二番目の意識的なショックとして、感情に働きかける、「不快感を表現しないこと」
「自己同一化、内的考慮をしないこと」を説く。
この二番目のショックがない限り、高次感情センター(もそれに続く高次思考センター)は機能せず、
内的進化も起らない。
自分の場合、不快感を表現しなくりだ。全然、二番目のショックができていない。
これからは、その辺を取り組むのが自分の「ワーク」なのかな。
最近、年のせいか氣力と體力が低下してゐる。氣力が出ない。
出すべき本をだいたい出したせいか。
一時期、「老人力」といふ言葉が流行ったが、ある年代に達すると、若さのバリバリといふふうにはいかなくなるのだらう。欲も衰えるのだらう。
なんの欲もない(といふとウソになるが、笑)。
(音の追求といふのが、一つの欲になってゐる)
たぶん、これから出てくる若い人たちのエネルギーといふのも必要なのだらう。
さういふ人たちが、次の時代を作っていくのだ。
それと並行して、「老人力」ではないが、年をとった人たちならではの「何か」が発揮される
必要があるのではないかと思ふ。
欲がなくなった先にあるもの。
氣力がなくなった先にあるもの。
この世に対する欲がなくなったとき、何が顕れるのだらうか。
垂直に顕れるもの。
弊社では、さういふものも提供していきたい。
(それだけでなく、いろいろ提供したいものはあるが、笑)
最近?、一部の人を除いて能力が低下してゐるのを感じる(自分も含めて)。
なぜ、こんなにレベルが下がったのだらう?
(もともとそんなレベルだったのか?)
スマホのせい? おそらく。
単純に見ることができなくなっているばかりでなく、
日本語能力も落ちてゐる。
日本語能力を扱ふ会社で、これは困る。
美しい、通る文章を提供しなくては。
切れるような日本語を読んでみたい。
覚醒系(ノンデュアリティ系)では、「いまここ」が大切といふ。
マインドは、未来か過去のどこかを思ってゐて「いまここ」にゐないから、覚醒すると「いまここ」だけになる。
ただ、「いまここ」だけだと平面だ。ただの現実世界だけだ。
「いまここが天国である」と認識するとき(覚醒するとき)、縦軸として「天国」があらはになる。
「いまここ」という平面と「天国」といふ垂直が交はる。
「いまここ」が逆境といふ状況だらうと「天国」が顕現してゐる。
地獄で天国。
「煩悩即菩提」といふのも、煩悩と菩提が同じものだといふ見方もできるけれど、
横軸と縦軸といふ見方もできる。
煩悩の中にあっても、菩提が顕現してゐる。
今度出す本『何が、起きても、それを、愛する』(マット・カーン著、仮題)に、ペースを落とすことが書かれてゐる。ハートで生きるためにはペースを落とすことが必要だと。ゆったりすることが必要だと。
アラン・コーエンさんも同じようなことを言ってゐる。
今まで、野望を持ち、欲のままにガムシャラに、渇かつとして生きてきた。ああしたい、かうしたいと闘争してきた。そしてストレスを抱へ、酒に溺れ、暴食をし、他のことにも溺れ、頭も朦朧として、いかれた状態だった。
出したいと思ってゐた本(分野)もだいたい出し終わり(まだあるといへばあるが)希望(夢)を失ひ、毎日の多量の事務的な対応に追われ、気力も体力も落ち、精神と神経が擦り減って、不適応状態になってゐた(る)。
今は、ペースを落とす必要がある。
多量の事務的な対応もあまりしたくないし、しないようにしよう。
本も出し過ぎないやうにしよう。
まう、これといった欲もないし。
ゆったりと生きていかうと思ふ。
この世界は幻想であり、諸行無常ではあるが、キリストのビジョンで見ると永遠の相で見える。神の世界が見える。神が常に在る、神とともに在る、神の中に在る。
そこに救ひがあるのだらう。
天国は死んでから行くものではなく、生きてゐながら天国にゐることができる。キリストのビジョンで生きるならば。
使徒たちは、さうやって生きてゐたのだ。彼らには光が灯ってゐた。キリストの光が。
今日お会いしたお医者さんによると、気力と肝臓は関係してゐるといふ。
酒の飲みすぎで、肝臓が弱って、それで気力も出なくなったのかな。
肝臓を大事にしないといけない・・・
と言ひつつ、酒を飲みながら書いてゐる(苦)。
『奇跡のコース』では、この世界は神が創ってゐない不完全なものといふ。
いつまでも不完全であるが故に、この世界には希望がない。
ラマナ・マハルシも「この世界のことは、この世界に任せない」と言った。
この世界はだうしやうもない。この世界には希望がない。
では、この世界でないところに希望はあるのだらうか?
神の世界に希望はあるのだらうか?
神の世界の希望って何?
神の世界にあれば何の希望もないのではないか。
希望をもつ必要がない。
パウロは、
「信仰と希望と愛、この三つはいつまでも残る。その中で最も大いなるものは愛である。」
と言った。
パウロの言った希望とは?
今、自分にはほとんど希望がない。
あっても希望なき希望。
希望と言ふとき、何か心が開くイメージがある。
なぜ開くのか?
望みが叶う可能性があるから?
死が待ってゐるこの世界で望みが実現しても、やがては消えてゆく。どこかで望みが死によって断ち切られる。
何の結論も出ない。
心理学はうだうだしてゐて苦手である。自己愛の世界。
また心理学は平面の世界を扱ってゐる。縦軸がない。神や信仰や悲劇性がない。
ライトスピも同じやうなもの。ライトなだけあって深みがない。
名人や巨匠や職人は、何年も修行し、自ら何かを会得し、磨き、そぎ落とし、そして人を感動させる何かを体得する。神が宿る? 神聖な何かが顕現する?
ライトスピにはさういふものがない。
手短に何かが得られる、といふタイトルばかり。
それで得られるものとは何なのか。ぴーひゃら。
今の自分はライトスピでもディープスピでもない。
何かほとんど諦めてしまった。何も達成しようとも思はない。達成しようとしないから名人にも巨匠にも達人にもなれない。かといって手軽に願望実現なんてとも思はない。何の意味もない。
もう年で死ぬだけといふ感じだ。死ぬ人間に願望なんて意味がない。
やれることはやったし、あとは惰性なのか。
体力も気力も落ちてゐる。
あとは後進に任せるだけ。
遊子、ひとりたたずむばかりなり。