覚醒には、個人があるままで覚醒するのと、個人性が消えたままでの覚醒がある。
一瞥体験は、まだ個人が残っている。覚醒した瞬間は個人消えるが、すぐに個人に戻り、これは何なのだとなる。そして徐々に覚醒の間隔は薄れ、個人の生活に戻る。そして覚醒を追い求める。
でも、千瞥や万瞥をしていくうちに、個人性が消えたままの覚醒に切り替わる。個人性のないほうが主になり、時に個人性が出ても個人性のないほうに戻る。
ラマナ・マハルシやトニー・パーソンズあたりは、さうなのかな。
投稿者: imai
神のやうな人は男が少ない
今まで見てきた神のやうな人は、すべて女性だった。
男で神のやうな人は稀なのかな。
男はエゴが強いのか。
イエスやフランチェスコは稀な例か。
神のやうな人
時々、身の回りに神のやうな人が現れる。
神のやうな人は、知らないところで、至る所で、ゐるのかもしれない。
そのやうな人たちがこの世界を支えてゐるのかもしれない。
日本は四番目の覚醒の国?
前に覚醒系の外国人に聞いたとき、非二元・悟り・覚醒について人々が多いのは一番がオランダで二番目がイギリスと言っていた(どちらかが一、二番なのかな)。その次にアメリカ? その次が日本なのかな。ドイツはその次?
日本は四番目くらい。
一番覚醒が進んでゐるわけではない。
でも、最近は覚醒してゐる日本人も増えてきてゐるのかな。
日本が世界に影響を与えるとよくスピ界では言はれてゐるが、覚醒面では難しいのかな。他の国のほうが進んでゐるので。一部の国ではあるが。
日本の「和」の精神が世界に影響を与へるとスピ界では言っゐる。
他の世界では「和」の精神がないらしい。本当なのかな。
「和」の精神は、覚醒とはあまり関係がないかもしれないが、これからの世界を救ふためには必要なのかもしれない。
本質的には、覚醒が「和」の精神なのかもしれないが。
動画
最近、セッションをお願いしていて大好評のHARUMIさんに動画を勧められて、仕方なくやろうと思っています。
会社も厳しい状況なので、社長自ら本の宣伝をしないとけいないかなと。
言ふだけ言って、動画のチェックをしないで公開しやうと。
あとは動画担当者にお任せで。
表に出るタイプでもないし、話も下手なので、だうにでもなれと。
本の売上が上がれば(笑)。
上がらなければ動画も中止に。
サントリーには再度がっかり
新浪氏が「CBD」のサプリを持っていただけでサントリーを辞任しないといけないことになったのには、がっかりした。
違法でないのになぜ辞任しないといけないのか。
かつては、東北人を卑下する発言をサントリー(佐治敬三)はした。
体質が変なのか。
せっかくいいウィスキーを作ってゐるのに残念だ。
作ってゐる人たちは頑張ってゐると思ふので、経営陣がダメなんだらうな。
サントリーホールも、席によってはいい音がするが、席によっては石の壁で反響がひどくで聞いてゐられない。
石の壁を反射を弱める材質のものを当てはめてほしい。
サントリーは厳しいな。いいウィスキーを作ってゐるのに残念。他人(ひと)のことは言へないが。
覚醒体験の過程は、みんな大体共通してゐる
覚醒体験の過程は、みんな大体共通してゐるやうだ。
悟りや覚醒への興味からその系統の本を読んでいて、探求が始まり、煩悶し、何かのときに公園や喫茶店や何かのところで、自我が抜け落ちる経験(体験)をする。一瞥体験。
それがきっかけになり、何回か何万回かの一瞥(覚醒)体験を通して、非二元的な生き方を感得する。
西洋人、インド人、日本人を問わず、起こる。イスラム教徒(スーフィー)も。
仏教もヒンズー教もキリスト教もイスラム教もユダヤ教も関係ない。世界共通。
これからは、これが世界共通の生き方になる。
まったき愛と覚醒
まったき愛(純粋な愛)を行っているとき、覚醒が現れる。
愛は、自分の想いに浸らずに、他者を見る。自他を超えた全体で生きる。
覚醒は感覚であり、愛は心構えと行い(生き方)だ。
覚醒だけでは生き方につながらない。
悩み苦しみと入れ違ひの状態。
恒常的な覚醒(比較的大部分の時間の覚醒)を通して、愛の生き方を理解するようになる。
愛が真の生き方とわかれば迷いはない。
悟りとはこのことか。
変な内容の本たちが売り上げ上位にある
変な内容の本たちが売り上げ上位にある。最近はずっと。
「変な内容」といふ表現は、自分の偏見に満ちたものだ。
願望実現系でタイトルが読者をくすぐるやうな本。
軽めだったり。安易だったり。
いったい出版社は何をしたいのか。読者は何を求めてゐるのか。
エゴの満足か。
うちもそのたぐいの本を出してゐる。
今はあまり光が見えない時代。
仏教の悟りの記述の変遷
仏教の悟りについての記述も時代によって変はってきてゐる。
ブッダが悟った悟りは、初期の仏教ではうまく表現されてゐないやうに思ふ。
大乗仏教初期の中観派によって「空(くう)」と表現され、
その次の唯識派(瑜伽派)によって「唯識」と表現され、
密教では、何なのかとしばらく不明だった。
真言を唱えたり、印を組んだり、阿字を感じたり、護摩を焚いたり、これらは悟りとは関係ない。
単なる念力であり、霊力であり、呪術だ。悟りとは関係ない。
密教では、胡坐を組みながら男女が合体している如来像をまつってゐる。
シャクティ(性エネルギー)が悟りを表してゐる。
密教(タントラ仏教)では、「性エネルギー」が悟りの表現なのだ。
「性エネルギー」は性交とは直接関係しない、生命エネルギーの一種とも言へ、
グルジェフは、高次感情センター(一瞥や覚醒のセンター)と性センターは同じレベルで働いてゐると言ってゐる。
覚醒と性エネルギーは同一のもの。
密教は、性エネルギーといふ形(表現)で悟りを実現しようとしたのだらう。
密教の後に、禅やゾクチェンといふ純粋化(単純化)された悟りへあり方、表現へとまた変遷した。
禅も今では力を失ったが。過去の形にとらわれてゐる。
今の時代は、表現としては西洋の非二元(ノンデュアリティ)の時代。