仏教の悟りの記述の変遷

仏教の悟りについての記述も時代によって変はってきてゐる。

ブッダが悟った悟りは、初期の仏教ではうまく表現されてゐないやうに思ふ。
大乗仏教初期の中観派によって「空(くう)」と表現され、
その次の唯識派(瑜伽派)によって「唯識」と表現され、
密教では、何なのかとしばらく不明だった。
真言を唱えたり、印を組んだり、阿字を感じたり、護摩を焚いたり、これらは悟りとは関係ない。
単なる念力であり、霊力であり、呪術だ。悟りとは関係ない。
密教では、胡坐を組みながら男女が合体している如来像をまつってゐる。
シャクティ(性エネルギー)が悟りを表してゐる。
密教(タントラ仏教)では、「性エネルギー」が悟りの表現なのだ。
「性エネルギー」は性交とは直接関係しない、生命エネルギーの一種とも言へ、
グルジェフは、高次感情センター(一瞥や覚醒のセンター)と性センターは同じレベルで働いてゐると言ってゐる。
覚醒と性エネルギーは同一のもの。
密教は、性エネルギーといふ形(表現)で悟りを実現しようとしたのだらう。

密教の後に、禅やゾクチェンといふ純粋化(単純化)された悟りへあり方、表現へとまた変遷した。
禅も今では力を失ったが。過去の形にとらわれてゐる。
今の時代は、表現としては西洋の非二元(ノンデュアリティ)の時代。