いくら神だのみしやうと、苦悩は消えない。救ひはない。
苦しいうちは、ただ「神よ、お救ひください」と叫ぶのみ。
苦悩のまま。苦悩は終わらない。
まうダメだと、覚悟を決めたら、神への救ひもへったくれもない。
覚悟に救ひはない。
死人で生きていくしかない。
いくら神だのみしやうと、苦悩は消えない。救ひはない。
苦しいうちは、ただ「神よ、お救ひください」と叫ぶのみ。
苦悩のまま。苦悩は終わらない。
まうダメだと、覚悟を決めたら、神への救ひもへったくれもない。
覚悟に救ひはない。
死人で生きていくしかない。
いくら覚醒体験があるとしても、苦悩があるうちは悟ってゐるとはいへない。
自分は、苦悩だらけで、悟ってゐない。
悟らなくても、苦悩を消す方法として、「覚悟を決める」といふものがある。
「覚悟」といふ漢字字体は、さとりだが(笑)、「覚悟」はさとりではないやうに思ふ。
覚悟を決めたら、まう希望はない。なんの望みもない。死を決するのみ。
「腹をくくる」ともいふ。
覚悟すると、思考が停止する。
とりあへず、覚悟を決めて、いろいろな手を尽くせるものは尽くしてみて、あとは死を待つのみか。
死ななければ、とりあへずの幸せなのかな。
未来予想からくる苦悩とあがきか、覚悟か。
同じ演奏でも、魂のこもった演奏と、さうでない演奏がある。
魂のこもった演奏は、音楽の精霊が演奏家に息吹きを吹き込んで音楽が奏でられていく。それが聴く者を感動させる。
魂のこもった演奏は、魂がのった演奏。
その演奏には、何か真実がある。
魂のこもった演奏は、魂を込めようとした演奏ではない。さういふ演奏には真実がないやうに思ふ。
演奏者の内側からにじみ出る何か。
11月頃に出版予定の金森さんの新作は小説形式でけっこう面白い。
いろいろなことが会話で展開されるが、「人生の目標はただの観念」みたいな会話もある。
人生の目標なんて、頭ででっち上げたもの。使命も同じ。エゴ。
実際には何もない。
ただ流れがあるだけ。
弊社も会社の理念として「人々の目覚め」を掲げてゐるが、これも頭だけだ。
たくさんの目覚めの書を出してきたが、いくばくかの人たちの目覚めの役に立ってきたのかな。
「人々の目覚め」が単なる観念ならば、会社存続の意味は?
何のためといふ妄想で生きていくのはいつかおさらば。まうおさらば?
そのとき会社はだうなってゐるか。
なるやうになってゐるのか。